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■ リバイバルは素晴らしい / ヨハネ8章 (2011-09-18)

リバイバル集会の度に思い出すことがある。 数年前の集会であった。 私がご招待した人々の中に、ある牧師が来ておられた。 集会の終わり近く、メッセンジャーは招きをされた。 いつもの如くであった。 この招きとは、今夜イエスを受け入れた人、そして新たな決心、献身を促すものであった。 会衆に向かってメッセンジャーは神への応答を会衆に呼びかけ、前に出て来るようにと励ました。 すると、かの牧師が前に出て来られ、メッセンジャーの祈りを乞うた。 私は少なからず、感動した。

招きがなされるとき、、人々は前に出て来て牧師に祈りを願う。 その状況の中で責任教会の牧師として、私はメッセンジャーのサポートをすることに追われていた。今までは・・・ 場合によっては大勢が出て来られ、講壇の前が溢れるからである。 そういう自分を思い出し、私は自分をつくづく恥じた。 本当は牧師だからこそ招きに即応じて、自分の弱さや非を司式者に打明け、祈りを乞うべきではなかったか。

ヨハネ8章に姦淫の現場で捕らえられた女性が群集とイエスの前に引き摺り出された。 彼女を待っていたのは群集から投げられる石によって、無残に苦しみ死に行くことだけだった。 律法学者とパリサイ人がイエスに向かって叫んだ。 「先生、この女をどうしましょうか?律法には石打にせよ、と書いてありますが?」 イエスは黙ったまま、身を屈めると、地面に指で何か書いておられた。 しかし、人々の声がやまないを見られると、身を起こして彼らに言われた。 「あなた方の中で、罪無き者から石を投げなさい。」

瞬間、群集は静まり返った。 数分が経過したかも知れない。 そして突然、動きがあった。 年長者から始めて、ポツリポツリとその場から去り始めた。 そして遂に全員がその場から去り、残されたのはイエスと女性だけだった。 イエスは彼女に問うた。「あなたを罪に定める者は誰もいないのですか。」 「はい、誰もおりません。」 イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯さないように。」

牧師は教会の中で、おそらく最も多く学び聖書に親しんでいると思う。 聖書の真理をいつも見上げ、深い認識を蓄えていると思われる。 とすれば、罪に対して最も敏感であろう。 だが、立場が違うのだ。 信徒(レイマン)と教職者とは・・・ 果たしてそうだろうか 「そうは思わない」と、私は聖霊に諭された思いがした。 牧師だからこそ、一番先にしなければならないことがある。 それは人の前だからではなく、神さまの前だからである。 個人で自室でされるのも良いであろう。 それとも、人前では惨めで恥さらしと考えるだろうか。 だが、牧師とて一人の信徒、一人の罪びとに過ぎない。 牧師だからこそ、一番に罪を悟り、主に告解することが求められるのではないだろうか?

群集の中でなぜ年長者が先に、あの場から去って行ったのか。 おそらく、長い人生で己の罪、傲慢、変れない弱さ、醜さ、おぞましさを自らの内に見たからであろう、と想像する。

教会のリバイバルで仮に、である。 集会の最後に招きがあったとして、である。 牧師が、長老が、教師が、役員が、執事が、次々と前に出て行き、己が弱さのために司式者の祈りを乞うたとしたら・・・・日本の教会は変わると思うが。 パフォーマンスでなく真摯に誠実に、聖霊の導きの下で・・・ 果たして、あなたはどう思われるだろう?

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