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■ 神の言葉は種、糧、力 / マタイ13章1~15 (2011-10-09)

「信仰は聞くことから始まり・・・」ローマ書10:17 クリスチャンになって暫くすると、「大体。わかりましたから」と、頭で思い込んでしまい、あとは機会に迫られて読む程度になる。 だが、信仰は何十年のキャリヤがあるクリスチャンであっても、聖書の言葉を聴くことで支えられるのである。 それはまさに霊的食事、神の口から出る言葉、パンである。 言葉がパンなら、聖霊は水であろうか。 仮に聖書は週一度、日曜だけの食事とすれば、心はカスカスに渇いてしまい、この世の人と同じ人間性に戻ってしまう。

私自身、幾度も体験して来たことは、キリストから心が離れ行く経緯の怖さである。それを自覚できるなら良いのだが、殆ど自覚出来ない。 気がついたときは、はるか遠くに離れてしまっている。この世が持つ引力の強さと怖さを、私達はあまりにも軽視していると思う。 神の言葉を鬱陶しいとまで思わずとも、時間がない、忙しいからとして、遠ざかっていると、闇に向かって生きていることも同然であると感じて欲しい。

クリスチャンはスタートだけに限らず、絶えず「神さまの言葉を聴く」のである。 17節の後半は「・・・・聞くことはキリストについてのみことばによる。」とある。 クリスチャンがキリストを離れて、クリスチャンで居続けることはあり得ないことを、クリスチャン自身が認識していない。 「自称クリスチャン」になってはならない。 永遠の命はキリストが下さるのだから。

今年もアシュラム(祈りとみことばの退修会)が開かれた。 世の流れと習慣、忙しさから離れる場所である。 それを「信仰のリセット」と私は呼ぶ。 忙しい現代人が最も疎かになるのは、教会奉仕ではなく、神の言葉を聴くことである。 それがアシュラムを通して、もう一度リセットされるのである。 静かな場所で、独り、主の前で静まってみことばを聴き、祈り、神と自分に向かい合う。

先ず、神の言葉は種である。 その種蒔く方は、実に気前が良い。 岩地であっても、道端でも、イバラの中にさえ、公平に蒔いておられる。 つまり、言葉を聴いて受ける「岩地さん、道端さん、いばらさん」がどんな人達であっても、彼らの都合にすべてまかせて下さる主は、なんと慈悲深い方であろう。 しかし、神は蒔いた種がどう働くかも心配しておられる。 だから、時としてクリスチャンでない方が、聖書の言葉を聴いて、涙を流す場面があるのだ。 神はノン・クリスチャンであっても、聖霊によって人の魂に語られておられる。 いつか良い地に変えられることを願って。

次に神の言葉は糧である。 幾ら大食いしてもそれが糧にならなかったら、無駄食いでしかない。 しかし、神さまの言葉は必ず私達にとって無駄にはならない。 必ず、良き栄養素として、神の子にならせてくれる。 現代、誰だって体に良いと思えばそれを食し、サプリメントを摂り、健康だけでなく美容にだって熱心になる。 ならば体だけでなく、内側の大切な大切な精神面の健康にだって、もっと覚醒すべきだと思う。 そのために神さまの言葉は実に効果満点なのだから。

最後に神の言葉は「力」である。 何が良いと言って、神さまの言葉以上に力あるものは無い。 侮ってはいけない。 その言葉にどれ程の力、パワー、ダイナミック性があるか・・・・ 信仰に立ち返ることは主の言葉を通しての力と愛によってである。 その力を幾度も体験するなら、あなたは必ずしっかりと主の前に立つ! 生きている今こそ、それを体験して欲しい。 そして体験こそ、私達の力となる。

一日は24時間、24時間は1440分、その48/1は30分。 せめて一日30分を主に捧げ、主の言葉を聴いて欲しい。 それがあなたの人生、あなたと家族、あなた自身の幸せとなるのだから。

「信仰は聴くことから始まる?」アーメン!

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