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■ 神の摂理 / マルコ8:11~21 (2011-10-16)

イエスの時代、ユダヤ教に非常に熱心な人々と言われたのが「パリサイ派」の人々だった。 彼らは律法主義そのものであったが、神ご自身を求めるよりも律法を守ることに執着していた。 その様な彼らに対し、イエスは歯に衣着せぬ言葉で批判された。 「パリサイ人の言うことは聞きなさい。だが、彼らがしている事を真似てはいけない。」 実に痛烈な内容であった。 何となく、こちらも耳が痛くなる言葉である。

パリサイびとの心は決して開かれなかった。 あくまで見える世界でしか、彼らは生きなかったと言える。 表面的には繕う。 しかし、心は遠く神から離れていた。 宗教家としては立派に見えたが、それはあくまでこの世的な偽善者集団であった。 こう書いている私も、もしかして彼らを批判できる立場にないかも知れない。 理想とするところと、実際に自分が生きているところに、どうしてもチグハグな部分が見え隠れしているからだ。

クリスチャンの理想像は、『霊性は高く、姿勢は低く』で、あると思う。 聖霊に満たされているときは、確かにそうなれることを知った。 しかし、そうなれていない場合が多いことも知っている。 心から神に頼らねば、誰であっても決して満足した生き方は出来ないのである。

思い起こしてみれば、あのパウロも「生粋のパリサイびと」であった。 パウロは、初期のクリスチャンたちに対して、迫害し、捕らえては殺すことだけに生き甲斐を感じる人だった。 迫害から逃れて隣国へと北上して行ったクリスチャン達をパウロは追った。 パウロはそれが神にあって正しいことと信じ込んでいたからである。

そのパウロがイエスに出会って一週間、彼はユダヤ教の会堂で、大胆にも「イエスこそ我らの待ち望むメシヤ(救い主)であると宣言した。 神がパウロを召した意味・・それは彼が旧約の預言と律法を熟知していたからだと思う。 使徒の中で彼以上の者はいなかった。 まさにユダヤ人、そして異邦人伝道に適した人であった。 もう一つ、知識だけであの働きは到底不可能であった。 それは神が彼に伴われたことである。 聖霊が彼を助け、彼と共におられたからだ。

パリサイ人はイエスを攻撃し、そしてイエスから批判された。 しかし、神はそのパリサイびとの中から「主のしもべ」を選ばれた。 最も相応しくないパウロを選び出し、彼にご自分を現し、聖霊の油を豊かに注がれたとき、類いまれな主の器が誕生した。

神の摂理、それはパウロに限らない。 すべてのクリスチャンはその救われた経緯に、既に神の摂理が置かれたと思う。 およそ牧師に似つかない人間が牧師とされた。 また、宣教師にそぐわない人が導かれた。 人間の目で見るなら、その選択は大失敗であろう。 だが、神の摂理を理解できるなら、そこにこそ大成功が待っている道なのである。 神は今日も私達の行方を見守っておられる。 神の選びがいつ、花咲くのか、実をならせるか、きっと期待されておられる。

神は遠い昔から、人と一緒に人生の旅を歩んでおられた。 詩篇106:7~8 私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。 しかし主は、御名のために彼らを救われた。 それは、ご自分の力を知らせるためだった。

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