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■ 勘違い / ガラテヤ人への手紙2:15~21 (2011-10-30)

勘違いは誰もが体験したものだと思う。

後で思い出し、笑って済まされるものならよいが、そうでない場合もある。 特にキリスト教における異端に関わってしまった人は、ご本人と家族にとって長く尾を引き、実に深刻な事態をもたらすことがある。

「信じる」という表現は実に広い解釈を伴っていると思う。 爪の先で信じる程度から、命を賭して信じている場合もある。 それは一言で定義できない程の表現だと思う。

教会で初めて会う訪問者、聞くべきか否かでいつも自問自答する。 「あなたは神を信じていますか?」と聞いたら、大概の日本人は「はい」と答える。 場所が場所だから、であろうか。 ためらいつつ踏み込んで、更にもう一つ聞く。「あなたはイエスさまを信じていますか?」 ここで初めて、その人の信仰の有無ゾーンに踏み込んだ、と言えよう。 相手の人には申し訳ないとも思うが、そこをハッキリさせておいたほうが、先方にも、こちらにも未来があると思うからだ。

クリスチャンの成長には、どうも勘違いが付きまとうものだ。 誰だって初めから熟練した信仰者であろう筈がない。 増してや信じるお方は、この目には見えない霊なる神さまだ。 だから勘違いを恐れたり、恥ずかしがっていては、膨大な時間を無駄にするだけでなく、自分の成長に翳りが入る。 つまり私達には、どれだけ素直になれるかが試されている、と思うが良い。

クリスチャンは「義人」と「罪びと」の両極面を持っている。 だが決して二重人格者ではない。 人間である限り、そして救われている限り、その二面性は死ぬまで捨てることは出来ない。 そして、それで良いのだし、当たり前なのである。 表面的な仮面など捨てるべきである。 神と自分に対して正直が良い。

パウロは言った。「私はキリストと共に十字架につけられた」と。 この告白は彼の勘違いだろうか。 実際、彼はイエスの十字架の場面に登場していないではないか。

しかし私とて本当に自分の心、生きている現実、生身の自分自身を見詰めるなら、やはり聖人などと、お世辞にも呼べるものではない。 だが、キリストを信じて生きるところにおいては、間違いなく義人なのである。 それが十字架と復活の力なのである。 ここにキリストの力があるのだ。 私の力ではない。間違いなく神の栄光が、「それを為してくださったのだ」。 ここを認めずして、救いは達成していない。 罪と咎を赦された私こそ救われたものでありつつ、同時に弱さを背負っている。 神の言葉に従えない自分。 どこか利己的に生きてしまう自分。 誠に恥ずかしいが、これも現実なのだ。

単に罪びとの世界だけで生きられず、かと言っ「私は聖人である」とも言えず、さあどうしたものか? 「ああ・・私はなんと惨めな者だろう。」とパウロは呻いた。 だが次の瞬間、「私はイエス・キリストのゆえに神に感謝します!」と叫んでいる。 それはまさに歓喜の叫びであった! この両方の叫びは、同じ箇所に並んで記されたのである。

「私は既にこの世で何にも悩んでいません。 すべてはイエスのおかげで、神の子とされたのですから」と誰かが言った。 立派である・・だが、私はそうなれない。 罪は捨てたくとも、罪の源泉が私の中に存在しているからだ。 悩みつつ、喜ぶ。 彼が、彼の勝利によって、私を神の子とせられたからだ。 「この世にある限り、私は十字架が必要です。」と主に言うしかない。

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