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■ 恵みの滴 / 第二テモテ3:13~17 (2013-01-20)

『聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』 第二テモテ3章15~16節

聖書と教会という世界から世に飛び出した言葉はたくさんある。 言葉と意味が世において一般で使われているものがあれば、今だ教会だけに限られた言葉もある。 例えば「恩寵」、英語でGRACE。 辞典では、罪深い人間に無償で与えられる神からの賜物とある。 また摂理という言葉、英語ではPROVIDENCE。 私の個人的訳では「神の深い配慮」。 以上、これらの素晴らしい言葉に出会えたのは、自分がクリスチャンになれたからだ。 これらは単に言葉だけに留まらず、深く広い神の慈愛の世界に招き入れられ、この人生で味わったからこそ身に沁みて感じるものである。

創造主は時の分け隔てなく私達に語り掛け、自身の思いを伝えようとされている。 しかし、私達はいつも忙しく動き回っており、神の語り掛けを聞き逃し、それらの恵みをキャッチできていない。 若しかして多くの人々私と同様なのかも知れない。 非常に勿体無いことである。

ヨハネ15章でイエスさまが言われたことは、キリストにつながり、キリストに留まらなければ、私たち自身では何も為し得ないということである。 為し得ないどころか、幹から切り落とされることだってある。 それなのに私達は自分を過信し、神を忘れ、独り相撲になっているかも知れないのだ。 もう少しゆっくりと落着いて、イエスの前に座って恵みの滴を受け取らねば、摂理とか恩寵とか、神の尊い知恵を無駄にし、聞き流してしまっているのである。

パウロがテモテに書いた第二の手紙の3章終わりの言葉。 『聖書はあなたに知恵を与える。聖書は神の霊感によって書かれた。』 ここに二つの要点が見て取れる。 人間の知恵なら利己的で保身的に使うだろうか。 しかし、神の知恵は人々のために、そして平和と成長のために、徳と益を皆で分かち合える様に用いられる。

「霊感」と訳された言葉の直訳は「神のいぶき」という。 初めの人間アダムは地のちりで形作られた姿でしかなかったが、神の息が吹き込まれたとき、人は生きたものとなった、と創世記にある。 聖書が神の息吹で書かれたのであるから、読む側も神の霊感に導かれて読まなければ、語る側の意思など当然通じ無い。 霊は霊によって理解し合い、語り合い、通じるのである。

私達は「土の器」に過ぎないが、この器の中に入って下さったキリストという宝ものは、この世で買うことなど出来ない。 修行しようと、断食しようと、得ることは出来ない。 ただ、ひたすら子供のように信じることだけだ。 ここに「信じる」という言葉の持つ、範囲の広さに驚かされる。

神が無償でくださった信仰。 キリストの限りない愛と力、全能のパワーの世界で生かされたい。 そこでこそ、本当に生きる意味と喜びを人は知るのだから。

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