■ 人は誰でも変われることが出来るのです / 第二テモテ4:7~11 (2013-02-10)
私達がクリスチャンになれたのは、創造主が明確な二つの目的を持っておられたからだ。 先ず一つ目は私達がイエスさまを信じてこの罪を赦され救われ、天国に自分の場所が確保されること。 二つ目は私たち自身が新しく造り変えられることである。 これが神による「人間の再創造」である。 父母から血を受け継いで生まれた私達であるが、最重要課題は顔形の再創造ではなく、内なる人、つまり人間性というか本質の再創造である。
All things are possible with GOD. 実に「神にとって不可能は無し」である。 ナポレオンの辞書に不可能は無い、と書いてあったらしいが、最後に彼は敗戦と島流しの苦汁を舐めている。 人は自分で自分を変えることなんか出来やしない。 確かに「度偉いことをした人」は歴史上、数限りなくいた。 しかし、所詮人間は人間であって神ではない。 罪は犯す、欠点弱点ゾロゾロ、人を殺し物も国も取る。 そして死んで体は土と骨粉になる。
第二テモテへの手紙、パウロの言葉から彼を取り巻く人々の姿に、神の摂理による温かい創造のわざと、再創造の中で変えられた器の尊さを知らされた。 思えばパウロ自身も180度造り変えられた器であるし、使徒として用いられる経緯においても変えられていった人である。
第二テモテへの手紙4章にはローマで死期が近い空気を察知したパウロの人間味溢れる言葉が綴られている。 4:9 「あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。 4:10 デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。」
デマスという人はこの手紙が書かれる直前までは、パウロを支え福音伝道の労を共にしていた。 様々な迫害と困難を分かち合い、祈りも汗も涙も共有した。 しかし、デマスはキリストを見失ったがゆえに、パウロのもとを去って行ったと思われる。 当時は、私達の生きる環境とは比べようも無いほど、厳しい時代背景であった。 彼を責めることなど我々現代人の誰一人として、その資格を持つ者はいない。
パウロとマルコの関係は、大分昔であるが完全に亀裂が入っていた。 その頃のマルコは信仰的にも人間としても幼かった。 あるとき、マルコはパウロ達の一行から別れ、勝手にエルサレムへ帰ってしまった経緯があった。 マルコの行動はパウロの信頼を損ね、その後もメンバーの団結は失われた。 しかしマルコを弟か息子の様にして庇うバルナバのサポートにより、マルコも年を重ねるごとにメンバーからの信用を取り戻した。
当初、マルコの失態で彼を見限って、いとも簡単に切り捨てたパウロ自身も自らを省みて、キリスト者としての忍耐と寛容の不足、若者を育てるに不可欠な思いやりの無さに気がついた。 テモテという青年の性質も信仰も純粋な人間を支え、訓練し忍耐と愛で育て上げたパウロの深さは少なからずマルコを反面教師として感じた体験の賜物であったと思う。
第二テモテ4:11 「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」 この言葉の中に、マルコもテモテもパウロにとって欠かせない右腕であり、彼らを同等に扱い慕っているキリスト者の兄弟愛を見る。
すべてのクリスチャンは「誰でも神によって変えられことが出来る」のであり、変わらねばならない。 神の人間に対する再創造は、まさしく「人が内面的に変えられる」ことである。 それは神にとってのみ、可能である。 主と主のみことばが、あなたを変える。 変えられらないとしたら、「人間の自我」がそれを邪魔している以外、他に理由はない。