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■ トマスの信仰 / ヨハネ20:19~31 (2013-04-07)

昔からずっと思っていたこと。 それは12弟子のうちの一人、トマスという人の信仰に関してである。 彼は口先ばかりで、いざという時は柔軟性も順応性もない男と思っていたが、実際は実に見上げた男であった。 180度も見方を誤まってしまい正直なところ、トマスに謝罪したい思いである。 その原因は「あの時代に生きていた彼ら」と、「ずっと後に生きる私達」との時的ギャップが生んだものだった。

イエスさまがよみがえられた日の夕暮れ、弟子達がひっそり寄り集まっていた場所に主が来て下さった。 その朝、墓から腰を抜かして転がり込んだ様な女性達の「イエスはよみがえられましたた!」という知らせなど到底受け入れられず、ユダヤ人の目を恐れ、困惑していた10人の男達であったが、今、目の前のイエスから実際に手と足の釘痕を見せられた弟子達は驚くばかりであった。 弟子達は皆、喜んだがトマスだけ其の場に居なかった。

数ヶ月前の出来事・・・ 主が親しくしておられた「ベタニヤ村のラザロ」が死んだ数日後、イエスはラザロ「起こしに行く」と言われた。 そのとき、弟子達はイエスを押し止めた。 「先生、今ユダヤに行くと、あなたは殺されます!」 それでもイエスは出掛ける様子であった。 その時、トマスは弟子達の顔を見やりながら言ったものだ。 「さあ、俺たちも主と一緒に死のうではないか!」 それがトマスという人であった。 自分の内なる思いを言葉にする男。 周囲を気にして引いてしまわない男。

そして今、他の弟子達が「俺たちは主に会った。」という言葉にも、トマスは直ぐに同調出来なかった。 自分の内を振り切ってまでして、調子を合わせられないトマスだった。 しかし、彼の内は苦しんでいた。 《ああ、なぜ俺はあの日の夜、皆と一緒に居なかったんだろう。俺だけが主を見られなかったなんて・・・》 彼は皆に断言した。 「私はこの目で主を見て、この指と手で触れてみなければ、絶対に信じない!」

そして一週間後、彼らの居た部屋の扉は固く閉まっていたが、イエスそのまま通り抜けられて中に入られた。 イエスはトマスを見ると彼に近寄って言われた。 「あなたの指を、この手の釘痕に、あなたの手を私の脇の槍痕に差し入れてみなさい。」 即座にトマスは言った。 「我が主、我が神!」 イエスは彼に言われた。 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです。」

イエスがトマスに語られた言葉の真実は、私達が二千年前の「あのとき」に立たなければ本当の意味にはならない。 私達が21世紀という遠い未来から、トマスのことを批判するのは文字通り「場違い」であった。 主の言葉は私達、つまり未来の者へのメッセイジだったと思う。

確かにトマスは主のよみがえりを疑った。 そして否定もしたであろう。 しかし、彼の疑いと否定は「前向き」だった。 トマスは徹底的に前向きだった。 逃げでも言い訳でもなかった。

私は思う。 否定も疑いも、それ自体には何ら問題ない。 人は様々な印象や意見、見方をするのだから。 問題は、どういう心と姿勢、立ち位置で疑いそして否定をするか、である。 前向きか?後ろ向きか?・・・問題はここにある。

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