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■ これが何になりましょう / ヨハネ6:1~14 (2013-05-05)

『仮に人間の理性と道理、知識だけで生きるとしたら、確かに聖書はナンセンスである。』 もしキリスト信仰を見失った人があるとしたら多分、一番最初にそういう思いが心に迫るかも知れない。 「私はなぜ、こんな荒唐無稽な話を真に受けていたのだろうか・・・。」と。

実際、私自身も大分昔になったが、そういう時間が少なからずあった。 しかし、そうであったにせよ、キリストの十字架に自分の罪、そして主の贖いを信じた私は、再び帰るこの世への道と居場所は無かったのである。 主に向かう道は霞み、そうかといって元いた世に帰る道なき者にとって、それは楽しく無く、意味も持たない日々だった。 そして私はヘブル書から、モーセの選択を見させられ、「エジプトの王宮(この世の象徴)で快楽を謳歌する」ことよりも「神の民(イスラエル)と共に苦しむ道」の何れを選ぶかを導かれた。 神は人々に対し、ナンセンス(一般の人からすれば)を大らかに突きつけられ、ご自身の思いと存在を問うて来られたと考える。 しかし、つくづく考えてみると、誠唯一の神(創造主)に従わないことこそ、ナンセンスなのである。 希望も真理も無いこの世。 永遠も明日も信用出来ないこの世。 長い様で短い人生、限界と滅びだけが迫るこの世。 だのに麻薬に耽るかの如くに捉われている日々を、楽しく自由な世界と勘違いしている人生なのである。

時は過ぎ越しの祭りが間近な頃。 イエスを追って、数千人の群集が迫っていた。 主は傍らの弟子達を見やりながら声を掛けられた。 「この大勢の人たちの腹を、どうしたら満たしてあげられるだろうか?」 ピリポは即座に応えた。 「先生、これほど大勢の人々では仮に200日分の労賃でパンを買ったとしても無理ですね。」 アンデレは、側に居る少年の抱えていた弁当とイエスの顔を見比べながら、ふと呟いた。 「先生、この子が五つのパンと二匹の魚を持っています。でも、これが何になりましょう。」

ピリポもアンデレも至極、当然の思いであったろう。 しかし、ここにこそ私達が目を留めるべきものがある。 確かに何も無い。 あるとすれば少年の僅かな弁当である。

しかし、そこにはイエスがおられるではないか。 それが全てではないだろうか。

クリスチャン達こそが、目の前の現実しか見ていない瞬間をもう一度見詰め直そう。 そう、種はそこにあった。 信仰の信仰たる「カラシ種」があった。 例え小さな子供の弁当であろうとも、神がそれを用いて下さるなら何かが起きる! 目に見える現実だけに眼と心を奪われると、霊眼も霊性も御霊なる方を見失う。

人間が選択する、この世の当たり前を真理と考えることはサタンの狡猾な罠以外のなにものでもない。 神の園、エデンの東で繰り広げられた出来事を、もう一度読み直そう。 あなたの後ろにある扉を見て欲しい。 人間が否定する扉、見ようとしない扉こそが、神に帰る扉なのだ。

イエスは少年の弁当を手にすると、それを天にかかげ、そして神の祝福を願って祈られた。 実に滑稽で景色であったろう。 だが、滑稽はそこまでだった。

イエスは弟子達にそれを渡すと言われた。 「人々が欲しいと思うだけ、全員に配ってあげなさい。」 男達だけで5千人と言われる群集は腹を満たされた。 主が余ったパン屑を集めさせると、12の篭はいっぱいになった、と聖書は言う。 途轍も無いナンセンスを神が肯定された。 これをナンセンスと思うなら、大いに結構、喜んでいただこうではないか。 人間世界の道理と常識などより、はるかにメリハリがあって楽しい。

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