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■ いつだってチャレンジ / マルコ1:21~28 (2013-05-26)

私はこの五月上旬、アメリカに旅行したが、その時の小さな体験である。

風そよぐある日、くるくると規則正しく回りながら、次々に舞い降りて来た小さい物体が目に入った。 初めは蝶か?と思って拾い上げて見ると、それはメープル(楓)の大木から落ちてきた種だった。 種には一枚の羽の様な葉(まるで蝶か虫かと思える)が付いていた。 春に種を落とすことは木としては珍しいが、時節を考えれば一番相応しい時であろう。 土の上に落ちれば直ぐにでも根を張れるだろうが、そのためには風に乗って少しでも遠くに飛ぶ必要がある。 真っ直ぐ落ちると親木の根元にまとまって積み重なってしまう。 そこで創造主の知恵を見た。 重い種に羽を与えてあげれば、何十メートルも場合によっては100メートル先までだって飛ばせる。 それはまるで小さなヘリコプターが集団で舞い降りて行くかに見えた、ある意味ユーモラスで愛らしくも見えた。

仮に目の前の小さくてシンプルなひとコマの現実にせよ、私達がそこに神を想うなら、まさに神の摂理と不思議を見る。

安息日、イエスがカペナウムの会堂で教えられた。 集まっていた人たちは、イエスの話に驚い、とある。 それはイエスの話がユダヤ教のラビ(教師)のそれではなく、権威ある者の様だったからだ。 文字通り、神の国を目の前に見るかのように、具体的であったのだろうか。 ところが、その場には汚れた霊につかれた男が一人いて、イエスに向かって叫んだ。 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

私はここに興味を覚えた。 大勢の人達はイエスの話に感嘆したのであったが、その一人だけは違った。 激しく反応したのである。 それは、その男性にとりついていた「汚れた霊」の為せるわざだった。 イエスを見、彼の話を聞いて、男はイエスの本質と素性を見抜いた。 悪霊であれ、汚れた霊であれ、神の霊宿るイエスを神の聖者として即座に見通したのである。

たとえば私達はどういう思いをもって、礼拝に参加しているだろう。 神への感謝の思い、神への願い、祈り、賛美、多々あるかも知れない。 どれも尊いことである。 だが、私達は霊と誠をもって礼拝せよ、主にいわれている。 その日、語られるメッセイジに聖霊が働いて下さっているなら、聞く側も聖霊に導かれていなければ・・・ 理解できないし、また悟れない。 あの男性の様に敏感に反応出来ないとしたら、淋しい限りではないだろうか。 単に「ああ、今朝はいい話だった。ためになった。」で良いのだろうか? 聞けない、悟れないのは人間の耳だからであって、霊の耳で聞かねばならない。 だからこそ、主は幾度も人々にチャレンジされている。 「聞く耳のある者は聞きなさい。」と。

ルカ24:49にこうある。 『あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』 力を着せられる・・・の力とは聖霊のことである。 そして聖霊は、私達が自分で勝手に脱いだり、着たりするのではない。 いと高き神が着せてくれる、と書いてある。 イエスを神の御子と信じ、私の罪を背負って死なれ、そし主は3日目によみがえられました、と告白したのなら、あなたはその瞬間に聖霊を着せられるのである。 自分で「どうこうする」のではない。 神が主体となって果たしてくださるのだ。

神はいつでも私達にチャレンジしておられる。 問題は、私達がそのことを知るか知らないかだけ、である。 聖霊は私達に語り掛けておられる。 いつでも私達が聖霊に答えるなら、チャレンジはスタートするのである。

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