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■ あなたの人生を画にしたら / 第一コリント4:6~21 (2013-07-21)

「坪庭」小さな空間に過ぎない場所を味わいあるものに仕立てている。 何の変哲も無い70センチ程度の高さの石が座っており、傍らに数本の年齢を経た木が植わっている。 土は苔蒸しており、長い時間が過ぎたことを物語っている。 さあ、この景色から何を感じるか? 石も木もたいした物ではないとしても、妙に何かを語り掛けてくる存在感はある。 名も知れぬ造園業者が造ったくらいであろうか。 しかし、確かに一幅の画でもある。 そして両手で四角をつくって、その景色を額縁にはめたイメージにしたとき・・・・その画の魅力の元が何であるか分かった。 そう、最も感動したことは、もの言わずとも微妙に仕立てられた空間だった。 目に見えぬ空間の中に何をどう置くかで、見る人に様々な感動を与えているのだろうか。 木を見ても美ではなく、石を見ても美ではなく一番の立役者はそれらを景色に仕上げている空間そのものであった。

私達は石や木ではないが、自分の人生を画にしたらどんな風景になるのだろう。 自分がどう生きて、どう振舞ったか、どう立ち回ったか知らないが、確かにたかが知れたものであろう。 だが、この人生に懇切丁寧に関わってくれた最高の功労者がおられた。 その方こそ、目に見えぬ御霊なる神である。 私が何を頑張ったからとて、救いを得たわけではない。 己の努力で「祈り」を得たわけでもない。 目に見えぬ永遠の神こそ、この人生の主役であった。

コリントの教会を見てパウロは思わず愕然とした。 彼らに何をどう言って悟らせようか・・・ その思いは次の言葉となって手紙にしたためられた。 第一コリント 4:8 『 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。』

「門かぶりの松」を見て先ず目に入るのは、一番上に立ち上がった部分である。 傘の様に刈り込まれ、誇らしげにそびえ立つ。 文字通り、冠の如く凛として見える。 しかし、あの部分は幹ではなく、たかが枝である。 長年掛けて手入れされているうちに、あのように見栄えある形になったのである。 木の中心である幹こそ、下の方で門の上に張り出た長い部分である。 一箇所の枝だけ長く伸ばされた様に見えるが、それこそ幹が未だ細かった段階で人の手により、グイッとへし曲げられた結果である。

コリントの信徒達は、まるで門かぶりの松の様に、そっくり返っていた。 彼らが何をしたのか。 何をしたわけではない。 ただキリストを御子として受け入れただけだった。

そこで私も幾つかの質問を考えた。 1. あなたは既に満ち足りていますか? (もしそうであるなら、何をもって満ち足りたと思うのだろう。) 2、あなたは何となく物足りないものを感じていますか? (物足りない、にだって必ず原因、要因がある。それを知らないままでは80歳になっても物足りぬ人生でしかない。) 3、こんな筈じゃなかったと感じていますか? (期待を満たしていないことが何かが分からないこと程残念なことはない。)

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