■ 自律と他律 / 第一コリント5:6~8 (2013-08-04)

「自律」という言葉、深くは知らないが、ドイツの哲学者カントの倫理学での中心概念であるらしい。 意味は他者の命令に依存せず自分で自分の行為を規制すること。 その反対に位置するのが「他律」であって、こちらは他からの命令や束縛によって規制するとのことである。 するとクリスチャンとしての生き方は自律か他律の何れであろうか。

コリントの教会に向かってパウロが言及したのは「あなた方は高慢であって、それは実に良くない。」であった。 はっきり「良くない」、つまり悪いと言った。 「思い上がっている」のであり、過剰なまでの自尊心に自惚れていたのである。 彼らは自律でもなく他律でもなかった。 彼らは「教会としての体」を成していなかった。

クリスチャンは先ず自分と神との関係が基準となる。 それは強力な縦の関係であって、中心的な位置関係であり、概念であり、信仰の柱となる。 私達は教会に属し働きに参加するが、それは教会の頭なる神、キリストに仕えているのである。 教会という召し出された群に仕えるのは結果であって優先ではない。 それは結果的にそうなる、と言えるのである。 つまり全ての奉仕においてそう言える。 牧師、教師、あらゆるリーダー、立場、そしてすべての奉仕は神に仕えるからである。 流しの食器洗いであっても、当然ながら同様である。 自分の得意とすることだからではない。 自分がしたいからではない。 神に呼ばれ、神に仕える、のである。 それを間違えると自律的信仰になってしまう。

コリントの教会に、よく似た教会が黙示録で語られている。 それはラオデキヤという教会である。 主は彼らに向かって言われた。 「あなた方は熱くもなく、冷たくもない。あなた方は熱いか冷たいかであって欲しい。だからわたしはあなた方を吐き出そう。 あなた方は自分は富んでいる。豊かになったという。しかし、あなた方は惨めな者、あわれむべき者、裸の者達である。」 コリントの教会とて誠にそのとおりであった。

しかし、である。 黙示録が語る七つの教会の中で神が最も熱く迫られるのは、何とラオデキヤの教会に語られた指摘の次に言われた言葉であった。 「見よ、わたしは戸の外に立って叩く。誰でも、もしわたしの声を聞いて戸を明けるなら、あなた方は私と食事をし、私はあなた方と食事をしよう。」 ここに語られる招きとは、主イエスを人生に招き入れ、共に生きるなら主と共に生き、主と共に暮らせる者となれる、のである。 良い者となったから主イエスが近寄って下さるのであるなら、それは恵みではない。 罪びとであるのに関わらず、主が傍に来てくださり、抱きしめてくださった。 それが神の赦しであり、そこにこそ神の愛と恵みがあるのだ。 キリスト教とはまさにそれである。

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