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■ 飛び越えられぬ谷さえ渡る / 第一コリント5:9~6:8 (2013-08-11)

私が神学校に通っている頃、巡り合った一冊の本。
かなりユニークな先生であると思うが、楽しくもあり、癒される書である。
 「田舎牧師の日記」(宮島信也著)。
 以来、25年近く手元にあり、たまに読んでいる。
ボロボロになってしまったので、ネットショップで探していたら、一冊見つかった。
 本の状況は『表紙見開きに書き込みあり、日焼けしている』とのことであったが、現物はかなり上級であった。
そして『書き込み』とは先生自ら書かれた「サイン」であったので、何となく嬉しくなった。
 

 私の感じるところ、所謂真面目な牧師とも思えない。
しかし、真面目とは何を基準にしているか分からないので、私の視点も危ういものだ。
 「かなり斜めから見ておられるなぁ」という感じもするが、どことなく似た者同士のせいか同感するし、「う~ん」と納得させられるところもある。
 要するに杓子定規な方ではないし、かといって普通が当てはまらぬ方ではある。
 楽しい方だ。
お元気であるなら、是非お会いしたい方である。
 

コリント教会は実に不真面目、体たらく、この上なかった。
まるで幼児、乳児の集団であった。それはキリスト教会のモラル以前状態であった。
 霊的な信徒が見当たらない、のである。
と、いうことは霊的リーダーがいなかったからなのか・・・・
 とにかく、キリスト教会というには程遠い存在だった。
だが、コリント教会に送られたパウロの書簡は反面教師として素晴らしい力を発揮し、以後2千年近くに渡って世界のクリスチャンに多大な教えを供給した。
 驚くべきは神の憐れみとしか言い様がない。
 

 聖霊は私達にとって欠くことの出来ない存在である。
この信仰生活で必要はことは、『聖霊のアクセルとブレーキ』である。
この両方が上手く活用されるためには、私達の力でなく、何と言っても聖霊にまかせなければならない。
 聖霊がアクセルを働かせてくれるとしたら、私達はそれを感じて主に従えば良い。
そうすれば自ずと信仰が働く。
 私達が人間的に動こうとする際には、聖霊のブレーキに敏感になれば良い。
コリント教会にはアクセルもブレーキも無かった。
ならば走ることも止まることも出来ない。
 

もし、あなたが冷静に考えてみれば、この単純な道理は苦も無く理解出来ると思う。
 毎日車を運転されている方なら、更に応用適用が出来るであろうし、納得されると思うが如何であろうか。
 

 旧約聖書、民数記に書いてある言葉は身の毛もよだつ程である。
なぜイスラエルは40年間も荒野を徘徊する様な旅をせねばならなかったのか?
カデシュ・バルネアの事件、そのときの神への不従順により、イスラエル民族で20歳以上の人々を全て荒野で死に絶えさせ、世代を入れ替えて約束の地へ招き入れるための「神のみわざ」だった。
 神への不従順は死を招く。
コリントの人々に読んで欲しかった。
 

 民数記32:8~13
私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。
 彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。
その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。
 『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。
ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』
 主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行なったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。
 

 心引き締めて主に従う道を選びたい。
 超えられぬ谷が旧約時代であった。
しかし、キリストの十字架は私達と神の国の間で橋となったのである。
 

 

 

 

 

 

 

 

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