■ この世で最も聖なる食卓 / 第一コリント11:17~34 (2013-11-03)
この世で最も聖なる食卓は「イエスと弟子達の最後の晩餐」であった。 「聖なる」という表現は、そこにイエスが陪席されたからであって、弟子達云々ではない。 現代でもイエス以外、聖なる存在などいない。 晩餐のテーブルは聖なる方と罪人が対峙している場所である。
聖書によるとあの晩12人の弟子達がそこにいた。 しかしイエスの心を共有する弟子は一人としていなかった。 イエスの身に迫る危険は勿論、イエスが語られる言葉でさえ悟りきれなかった。
12人の中にはイエスを銀貨30枚で売ったイスカリオテのユダがいた。 イエスなど知らないと否定したペテロがいた。 そして殆どの弟子達はイエスを見捨てて逃げた。 現代行われる教会の晩餐であっても、あの時と同様であるのだろうか。
数時間後に弟子達がとる態度を知りつつも主イエスは弟子達との別れを惜しまれた。 そして以来、教会はその晩餐が行われた聖書箇所を読み、イエスの言葉を聴き、パンと葡萄の意味を思い返し、後世に伝える。 主イエスが示されたことは、生け贄となる動物の血ではなく、神の御子イエスの血による新しい契約である。 それを忘れないために教会は繰り返し「主の晩餐」を礼典として行って来た。
確かにそれは「式」であるが、私個人はそう思わない。 それは式ではない。 出来事というより、今という瞬間である。 目の前に置かれたパンと葡萄の水に答を出すのは、私自身である。 牧師や教会に対してではない。 それはキリストの死の苦しみと血潮であり、それらを見詰める我々はそのことに対して応答を問われている。 式であるなら粛々と行うだけでよかろう。 しかし実際は違う。 今、パンと葡萄の水を口にし、腹に流し込む自分は主に向かって正直な答を求められている。 「血の契約」を差し出された方に対して「受諾」または「拒否」かの選択でもある。 単に「感謝」を超えた応答があっても良いであろう。 1+1=2 といった簡単な数式を毎回なぞるものではないだろう。 そうでなければ、晩餐に何の意味があるのか、と思う。 確かに「受諾の拒否」など有り得ないのではない。 受けるに全く相応しく無い者として、どういう答を出すのか、出せないのか。 そう、受ける道があるとすれば腹をくくって全く無力で罪びとの自分を差し出すしかない、のである。 ただ一つ、主は私たちが安易に差し出す「感謝します」の軽い言葉では無い、と思う。
「主の晩餐のテーブル」ほど、我が身の罪深さを思い知らされるときは無い。 それは神父や牧師が施主ではないからだ。 我々は招かれた客でありつつも、招かれざる客でもあるからだ。 いや、我々こそが受けるに相応しいものであることは事実である。
我々を招き、契約の場所に席を整えて下さった方がおられる。 「さあ、これを食べ、これを呑みなさい」と言って差し出してくださるイエスがおられるからこそ、受けられるのであって、それ以外は無い。