■ 死ぬまで発展途上がいい / 第一コリント8:1~13 (2013-11-10)

聖書の言葉から、ふと思ったこと。 現代、肉料理に関してはありとあらゆるほど色々あるが、やはり焼肉はあきない 食いたくなったら、その夜は完全に焼肉店に行っていると、思っても最近は左程行ってない。 行けないではなく、行かないのだが、原因は年齢から来る消化不良だと思う。 美味しい物ばかり食べていると、間違いなく健康を害してしまう。

若い日に思った。 今の若いときはどんな苦労を負わされても構わない。 でも年を経たときに苦労をしたくないし、少しは贅沢もしたい。 そして、それなりに生活が安定したと思う今、既に食べたい物も食べられなくなったというわけ。 実に笑い話だが、人生そんなものかも知れない。

しかし、ここでパウロの言葉を聞こう。 「もし、肉のことで兄弟を躓かせるなら私は今から一切、肉を食わない。」(第一コリ8:13) ・・・う~ん、パウロ先生、あなたは焼肉の美味さを知らないからですよ・・・ 否、仮に焼肉であってもパウロは肉を断ったと思う。やはりパウロは凄かった。

当時のギリシャはコリントの町の教会に起こった問題。 それは文字通り「肉」の一件である。 当時肉の流通経路の一端、偶像の神殿に備えられた肉が市場に出回っていたらしい。 偶像とはまさに人間が造ったものである。 人間の弱さ、特に心に生じる恐れ、不安、願望、欲望、これらが偶像を造るのである。 この地上、人間の居るところに必ず偶像が造られた。 仮に目に見える偶像が無いとしても、人間自身が偶像となっている。 だから、決して無神論ではないのだ。当人が神なのだから。

そういうことを「知識」として持っている人が、偶像に捧げられた肉を承知で食べたとしよう。 片やクリスチャンになったばかりの人、真面目な人、几帳面な人達にしてみれば何とも納得が行かない場面である。 そして彼らの良心は傷つき、信仰が躓くのである。

パウロは語る。 「知識は人を高ぶらせ、愛(アガペー)は人の徳を高める。 「徳を高める」と訳されたが、ギリシャ語自体は、アガペーは人間性を建て上げる、または霊的成長を助ける等の解釈が出来る。 確かに知識は自ずと身につくが、アガペーは経験でも勉強でも身につくどころか如何ともし難い。 無私の愛、見返りを求めない愛、敵をも愛する愛と考えるが、アガペーに関しては私自身、まったくの「乳児レベル」である。 生きて働く神が、この世にもたらせて給うた愛は、この世という人間社会にはなかったのか。

しかし、先日の踏み切り事故の犠牲となった方は、咄嗟に働いたアガペーの精神ではなかっただろうか。 また2001年に起きた新大久保電車事故、ホームから転落した人を助けるために入って来た電車を感じながら、後先考えずに線路に飛び下りた二人の人、結局三名の尊い命が失われた。 あの時のお二人にとって、自分の危険よりも落ちた人を助けたい一心だったことは、実にアガペー精神以外の何ものでもないと思う。 そういった犠牲に関しては幾つもあるが、そこで見る限り、人間世界にも無視の愛(アガペー)は存在している。

もし目の前に似たような現場を突きつけられた「そのとき」に、果たして自分はどういう行動に出るだろう。 アガペーの重さ、尊さを頭でわかっていても行動できないなら・・・「そのとき」に対しても答は出ない。 ただ、そういう事実が現実にあったということと、また十字架の上で人間の罪のために「父よ、彼らは何をしているのか分からないのです。どうか彼らを赦し給え。」と叫ばれたイエスの事実があったことは私達一人一人に突きつけられた質問であることを忘れない様にして生きて行きたい。

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