■ B・C時代のキリスト者 / 詩篇116:1~15 (2013-12-08)

詩篇116:1節は新共同訳がピタリと嵌ったという思いがした。 「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞きわたしに耳を傾けてくださる。」

主は嘆き祈る私の声を聞き、首をかしげて耳を傾けてくださる、と彼は記した。 ここに彼の心を容易に想像できる。 彼の心は騒ぎ、平安から程遠い。 心の叫びを聞いてくれる人などいない。 だが、最も親身になって聞いて下さる方がいる。 そう、その方が聞いてくださるのだから、それで充分なのである。 主は私の願いを適えて下さった、とは書いてない。 聞いてくださるのである。

B・C(BEFORE CHRIST)時代、つまりキリストが来られるはるか以前の年代に書かれたのが詩篇である。 しかし、彼の言葉を追って行くと、A・D時代(anno Domini),つまりキリストの時代にクリスチャン達が書いたのではと思わされるほど、主と彼が密着している。 実にイエスを信じ救われ聖霊を内受した新約時代のキリスト者が書いた様に実に新鮮である。 彼が今、私の隣で、教会の兄弟として主に祈っているかの様にさえ感じられる。 この臨在感は一体、どこから来るのだろうか。

遠い、遠い旧約時代の人が、これ程身近なところで書いた様に感じられるのが不思議で仕方がない。 彼が生きたのは、キリスト・イエスが来られる数百年も前の時代である。 人は時間的に離れた空間であっても、永遠なる主と共にあるならば、時を飛び越えた次元で一つなのである。 私は詩篇116編を書いた彼と思いを共有している思いである。 それは考えが近いからというより、彼が信じ、私が信じる永遠なる神が同じ方だからである。 確かに不思議と言えば不思議であるが、それは至極当然なことなのである。 救い主なるキリスト・イエスが来られるはるか以前の時代で生きている彼と、新約時代2013年の私の思いが一緒になれることが当然だとは・・・。

そして理解した。 彼はメシヤを待ち望みつつ、しかし彼自身は既にメシヤを捉えているのである。 彼が礼拝する主と、私が礼拝する主は、唯一生きておられる御霊なる神さまであるからだ。 そこに神さまの永遠性に包まれ、圧倒される実感がふつふつと湧き上がる。 彼が置かれた厳しい環境(3節~4節)、そこで自らの限界を知らされ、ゆえに改めて自らにチャレンジし(5節~7節)、そして主に出会い、主に感謝し(8節)新たなる決心へと導かれた(9節~10節)。 それは見事に21世紀のクリスチャンそのものの心である。

2013年クリスマス、御子のご降誕の季節が今年も巡って来た。 寒い時期、凍った様で混沌とした人間世界、遠い遠い世界平和、孤独と不安、格差社会、いつのクリスマスの時も浮かび上がる共通の世相と風潮は同じである。 サンタが居てもイエスが居ない世界の殆どのクリスマス。 人の愛、家族愛を求めつつも満たされない多くの人々の心の「やるせなさ」が、クリスマスという特別なシーズンを通して更に増し加わる。 だが、イエスを抹消したクリスマスに意味はないし、その名称は決して消せない。

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