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■ 原点であり到達点である / マタイ6:24~33 (2014-01-12)

人は一体、生きる意味と価値をどこに置いたら良いのだろう。 誰一人、この世に目的をもって生まれて来た人などいない。 気がついたら(少なくとも幼児期を過ぎた辺りで意識した?)生まれていたのである。 そして生きるための必要を知った。

私などは、先ず大事なことは食べることであった。 そのためには、お金の必要を知った。 お金は楽をして入らないことを知った。 先ず働くこと以外にないと理解した。 早く社会に出て働き、親の手助けをしたいと。 それが第一の目的だったが、その目的が果たされたとき、生き甲斐のある仕事を求めた。 やがて何年か後に知ったこと、この世の力は金であると思った。 そして聖書の神に出会った。

聖書は言う。 「あなたの宝のあるところに、あなたの心がある。 誰も二人の主人に仕えるこなど出来ない。 あなた方は神にも仕え、また富にも仕えることは出来ない。」マタイ6章 その言葉は、実に真実だと味わった。

特に教会生活ではそういう場面が多かった。 資金のある教会なら、それを味わうことは殆ど無い。 そして借金を恐れる教会もそういう迫りは無い。 私など仕事柄、「借金も信用の内」と考えていた。

教会の土地も狭く、会堂も狭い。 そこで隣家が売却予定になると知ったとき、献金を募りつつ、借金もして買った。 それでも未来を考えると、更なる会堂の拡張は不可欠と考えた。 やがて隣地の売り出しがあり、またまた献金と借金を募った。 そこでも味わったことは「金か?神か?」への応答である。

生きて働く神さまが問われる。 「貴方の神はわたしか?金か?」。。。。ウ~ン、私はクルシミチャンです。 クリスチャンでなければ真実な迫りだと思わないであろう。 私達は他の人の財布を計算し、見比べて献金などしない。 あくまで自分の財布と神さまを考える。

クリスチャンだって生身の人間だ。 金か?神か?問いに対し、「はい」と言って、素直に行動出来ない日も少なくない。 でもイエスさまを思い浮べると、「信徒なら、ここで腹を括らねば」という決断に迫られる。 そこは文字通り「エイ、ヤッ」のゾ=ンである。 ハードルは実に高いのである。 超えられるだろうか?超えられないだろうか?などと考えて(祈って)出来るものではない。 最後は「もう、どうにでも為れっ!」とでも思わなければ、踏み切れない。 情けない話だが、お金の必要が度重なる時は笑い話ではないのだ。 しかし、その時にはつくづく感じたものだ。 「神さまにこれ程期待されたとは何という幸せ者だろう。」

「神の国と、その義を先ず、第一に求めなさい。そうすれば他のものはすべて神が備えて下さる。」

マタイ6:33 このみことばは私達の原点でありスタートである。 そして、それは私達のゴールであり、到達点である。 私達はクリスチャンであり同時に求道者である。 何一つ、完成などしていない。 求むべき道は示されている。 イエスという道である。 その道しか無いのである。 その道以外に確かなる道などない。

『わたしが道であり、真理であり、いのちである。 誰でも私を通してでなければ、父のみもとに来ることは出来ない。』ヨハネ14:6

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