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■ 勇士よ / 士師記 6:11~13 (2014-01-19)

ギデオンという青年、真面目で勇敢な兵士だったが今は戦いから身を退き、小麦を打っている農夫まがいの日々だった。 ある日、主の御使いが彼の前に立って言われた。 「勇士よ!主があなたと共におられる。」 ギデオンはその声の主に目を向けた。 見るからに高貴で、知恵者のように感じたギデオンは答えた。悲惨な事態なのでしょう。見てください、この現状を。まるで主は私達にお構い無しの様ではないですか。」

「勇士よ!」 敗戦続きでしょげ返り、小麦を打っている青年の姿にまったく似つかわしく無い呼称であった。 ここで「勇姿よ」と訳した日本語聖書と、ヘブライ語の英訳が言わんとする呼称の意味は大きく違う。 それは『power full』をはるかに超えたところの『強力、強大な逞しき戦士』である。 英訳は『MIGHTY WORRIRE』(マイティ・ウォリア)である。 このWORRIREとは、敵の大群に向かったった一人裸馬に跨り、死をも恐れず勝利を信じて槍一本で突っ込んでゆく戦士、つまりインディアンの勇猛果敢な姿から生まれた言葉らしいと、私は解釈する。 その様な意味合いの言葉がギデオンに投げ掛けられたのである。

仮に、である。 私に向かって言われたとしたら、「それって誰?」と周りを見渡すか、「おもしろうも無い冗談、やめてくれますか?」とでも言うだろう。 場合によっては気恥ずかしいを超えて、「ざねんなよ」かも。

しかし、勇士よ、の後に続く言葉を忘れてはならない。 「主が共におられる。」である。 主が共におられるから、勇士なのだ。 クリスチャンとて同様である。 『主が私と共に』と信じられれば、必ずやって行ける。 しかし、そうでなければ独り相撲であって長続きできない。 自分で頑張らないで、イエスに頼れば何とかして下さることを知ろう。

毎週の礼拝、おまけに楽しい日曜日である。 しつこく言うが、人生最後まで毎週毎週である。 「ああ、これからずっと毎週の日曜をボツなのかよ?」と、私は若い日に思ってはしょげたものだった。 ギデオンにさえ遠く及ばない「自己中のヨワッピー」な者だった。 それでもイエスは私を呼んで仰って下さった。 「重雄よ、わたしがあなたと一緒だ!」

クリスチャン信仰は白紙手形を貰ったようなものだ、 発行人と将来の行く先も書いてある。 だが受け取り手の名が書いてない。 しっかり持ち続けておれば、いつか実現の時が来るもだから、手放してはいけない。 イエスを信じ続けて、共に歩み続けるところに忍耐が必要なのだ。 その忍耐を働かせるために、神への信仰が必要である。

ところがイエスを受け入れ、信じた筈のクリスチャン達の3分の2が、その手形を何処かにしまっておいた。 それは「こんなもの、人生にとって本当に必要なもの?」との思いからかも知れない。 確かにキリスト信仰が無くても皆生きて行ける。 やって行けるが、人間は食べて飲んで寝て働くだけの生き物ではない筈だ。 人はその内側に心、霊性、魂、思考、感情、理性、喜怒哀楽といった自然界で生きる生き物が持たない資質を与えられている。 欲が満たされたとしても、神無き人生は死ぬまで空虚であり続ける。

イスラエルは神の選民でありながら、神から遠ざかり世の偶像にうつつを抜かした。 イスラエルが神を捨てたのである。 それでも主はギデオンに声を掛けられた。 覚えよ、出来事を通し、人を通し、試練を通して、あなたは「神に帰るべ時」瞬間に出会うことを。 神はその時を待っておられる。

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