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■ あなたのその力で行け / 士師記6:13~24 (2014-01-26)

主の御使いはギデオンに仰せられた。 「あなたの、その力で行け。」 「その力」と淡々と言われた様な内容ではなく、あなたの持てる肉体の限り、あなたの持っている精神の限り、あなたの物理的可能なり、すべてを尽くして取り組め、と言われたのである。 英訳Strengthの意味は、日本語で言う、のっぺらぼうで平坦で端的な意味ではなかった。 あらん限りに己を出し尽くしせ、。。。。である。

但し、単に「あなたが努力して懸命に」だけであるなら、それはギデオン個人の功績になってしまうが、そうではない。 主がその現場に臨在され、協働者として共におられるのである。 それは私達が傍観者あって何もせず、見物客になるのではない。 主に委ねるとか、お任せという意味を私達は大いに勘違いしていないだろうか。 それは神を信じきって、己が無になるほど捨てきる、捧げきることである。 我らはあくまで祈り手、戦う者であって、決して監督でもコーチでも、求道者でもない。

主は我らと共に戦ってくださるのである。 「私はすべて主にお任せしましたからすべて安心です。」とか「主が何をなさって平安で大丈夫です。」と言われるクリスチャンがいる。 凄いなぁと思えたり、達観しておられるなぁ、と感じたりするが、信仰とは戦いである。 主がいつも私達の思いの通りに動いて下さるはずも無く、主だけがグランドで戦っているわけでもない。 主が我と共におられるからこそ、我らは戦士なのである。 そこに葛藤があり、世的で人間的な自己との戦いもある。 それらを捻じ伏せて主に従わせなくば、いつだって自我がむくむくと動き出すし、自己陶酔と主の平安を見極めることさえ出来なくなる。

私達がよく口にする「神を信じている」はスタートであり、休戦中であって完結ではない。、「主に聞いて従います」こそが目標である。 信じるだけなら鰯の頭だって神になる。 信じるだけなら爪の先でも髪の毛一本でも言えるものだ。 それは主に従っていますという言葉と、はるかに違う次元である。 信じています、とは100人が100人言えても、従っていまと幾人が言えるだろう。

イエスは、マタイ7:24でこう言われた。 「誰でもわたしのことばを聞いて、それを行うなら岩の上に家を建てた賢い人である。 風が吹いても水が押し寄せても、その家は壊れない。しかし聞いても行わないのなら、 風が吹き、大水が押し寄せればひとたまりもなく、家は必ず崩壊する。」 信仰は聞くことから始まり、行いへとつながってゆく。 そういう循環な生き方を人生という通り道で生かすなら、それこそが「聞いた」のであって、そうでなければ「聞き流した」でしかない。

ギデオンは類い希なる「つわもの」ではなかった。 特に武力に長けていたわけでも、剣の使い手でもなかった。 文字通り、普通の人であり、並みの兵士であった。 しかし彼が主を信じ、主の臨在に力を得て立ち上がるのであれば、彼こそ勇士なのである。 あなたも私もギデオンになれる。 そう思えるか否かは、あなたの選択と信仰次第である。

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