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■ ニコデモ / ヨハネの福音書3:1~7 (2014-05-25)

ヨハネ3章に登場する「ニコデモ」という人、単純に言って実に好感が持てる人物である。
 当時パリサイ派の中でイエスに対し、前向きに考える人など殆どいなかった。
 仮に少数程度いたにせよ、イエスのところに出向いて行く人など先ず皆無だった。
それだからこそニコデモにせよ、夜こっそりとイエスを訪れたことに、イエスを取り巻く空気を感じさせる。
 

 彼はイエスに言った。
 「先生!(ラビ!)」ユダヤ人の指導者であり、イエスよりはるかに年長の彼の呼びかけた言葉がそれだった。実に謙遜な人であった。
 「先生、私達はあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」
ニコデモがユダヤ人であるのに、『イエスが神のもとから来られた』という表現は尋常ではとても考えられないことである。
 通常では絶対にあり得ない表現である。
そして続けた。
 「神が共におられるのでなければ、あなたが為さるこの様な不思議は誰も出来ません。」
 『神のもとから来られた、神が共におられる』これらの言葉は対預言者というイメージではなく偽らざるニコデモの『イエス観』であっと思う。
 

それこそニコデモ自身の中で考えに考えて行き着いた結論だった。
そこから発せられたイエスに対する素直で真実な印象が彼の言葉であった。
 決してオベンチャラではなく、上っ面のお世辞でもない、ニコデモの真摯な思いが言葉となった。
 

イエスはニコデモの顔をまじまじと見ながらいわれた。
 「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない。」
ここで使われた『新しく』という表現は『上から』という意味をも持つ。
つまり神によって生まれる、である。
 

ここに私達クリスチャンが見落としている真理がある。
 「私はしばらく教会に通っている内にクリスチャンになりました・・・。」という表現を多く聞く。
 

しかし私など二ヵ月半、聞く耳持たず、見る目を持たず、行きたくもない場所、居たくもない礼拝、つまり「馬の耳に念仏」的人間であったし、取り敢えず礼拝にという程度の者だった。
だから、私は教会に行ってクリスチャンなりました、などという思いは申し訳ないが全くない。
でも行かなければ、あの1978年3月12日に意味はなかった。
その日、主は創世記を通して、私の魂を捉えられたからだ。
 

もし、あなたがクリスチャンであるなら、「上から生まれた」という認識がどれくらいあるだろうか。
つまり水平思考の過程でクリスチャンになったのではない。
 旧約時代の人々がどれほど飛び上がっても、修練を重ねても手に入れることが出来なかった「神からの救い」を何らの雑作無く、いただいたのは「上からの救い」である。
 

ユダヤ人、旧約時代のイスラエル人が怒り狂う程の妬みさえ感じる程、私達は安易に「それを」手中にしてのである。
イエスが天から齎された救いは、新しく生まれ変えさせて下さったからである。
 端的に言うなら私達は何をしたわけではない。
 

 指をしゃぶって救いを欲しがったわけでもない。
 単純にイエスを神の御子と信じて、この心にお迎えした程度である。
だが、それしきのことでも人の努力ではなく、神の熱心と選びの賜物であった。
 

 仮に厳しい人生を強いられ、救いを求めた人だっていたであろう。
それにせよ、試練をクリヤーしたから救いを手にしたわけでもない。
 私やあなたが救われたのは全能の主の「圧倒的で熱心な迫り」の前に押し出された、からである。
 

 生まれ変った人生は多くはない人が体験して来たであろう。
 新しく生まれた人だっているだろう。
だが新しく生まれ変わったキリスト者はどれくらいだろうか。
その人々こそ、文字通り「上から生まれた」人々である。
 但し、「上から生まれた」という実感と確信をどれだけのクリスチャンが持っているだろう。
 

ニコデモはイエスによって神の国を見た、思いがしたのであろう。
しかし、イエスは更に深くニコデモの頭ではなく、心に迫られた。
 「人は新しく(上から)生まれなければ、神の国を知る、触れる、見ることは出来ない。」
 

 

 

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