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■ キリストから目を逸らすな / ヨハネの福音書3:7~16 (2014-06-01)

人間がこの世で最も欲しがる物、心くすぐられる物の本質は何だろう。 先ず美味しそうなものである。口にする前から思わず生唾ゴックン・・・と鳴る様な。 次に目に麗しいものである。単に美しいとか綺麗とかでなく、欲望が改めて目覚める様なもの。 三つ目は一瞬で賢く成れそうて行く様な錯覚を覚えるもの。 これらは場合によって相当の犠牲を払ってでも手に入れたくなる。

さて私は唯一、誠の神を信じて以来36年経った。 その中で価値観というものが大きく変えられた。 実際、この世の全てに魅力を感じなくなったのではないとしても、大切なものの順番を変えられたと思う。 本来ならもっともっと変えられて良い筈であるが・・・

イエスの前に突然現れたユダヤ人の指導者であり、熱心なユダヤ教徒はニコデモというラビだった。 彼はイエスに何を見たのか? ニコデモはイエスに対し、先ず普通の人では無いことを確信した。 もう一つ、イエスは間違いなく神のもとから来られたに違いないと思った。 世から出て来た人が持っていない力、高貴、聖なる存在を見たのである。

冒頭に挙げた「三つの魅力あるもの」とは「エデンの園の中央」に生えていた木に実った「善悪の知識の実」である。 誘惑する者、サタンはその実をアダムとエバに見せびらかし、言葉で誘導し罪に陥れた。 だが、「その実をもってしても、このイエスは誘惑に墜ちる方ではない。」 ニコデモはイエスにそんなことを感じたのかも知れない。 故に「神が共におられる方」「神のもとから来られた方」とまで言い得たのであろう。

私達クリスチャンの存在する意味は何か? それは神の証人という立場に置かれたことである。 「見えない神を証しする」ために、特別に神に選ばれたのである。 しかし、我が身と心を振り返って考えれば、神に対して何とも申し訳ない者でしか無いように思える。 だが、聖書は言う。 「恐れるな、わたしがあなたを贖った。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたはわたしのもの」と神はイザヤ書43:1で断言されているのだ。 私が自分をどう思うかより、神さまがどう思っておられるかの方が大切なのだから。

風は思いのままに吹き、何処から来て、何処へ行くのか分からない。 人が神によって生まれるのは、ちょうどその様なものである。 確かに人間は物理学、自然科学など特に好きであろう。 しかし、こと魂の救いにおいては、「キリストが罪びと愛され、救われた」ことをそのまま飲み干せなければ、神を見上げて生きることは出来ない。 ニコデモは彼の人生において構築された神観においてイエスの神性をイメージしながらも、地上において「神によって人が生まれ変れる」ことは、どうにも理解出来なかったのである。

風は思いのままに吹き、何処から来て、何処へ行くのか分からない。 人が神によって生まれるのは、ちょうどその様なものである。 確かに人間は物理学、自然科学など特に好きであろう。 しかし、こと魂の救いにおいては、「キリストが罪びと愛され、救われた」ことをそのまま飲み干せなければ、神を見上げて生きることは出来ない。 ニコデモは彼の人生において構築された神観においてイエスの神性をイメージしながらも、地上において「神によって人が生まれ変れる」ことは、どうにも理解出来なかったのである。

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