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■ レプタ二つの信仰 / マルコ12:28~44 (2014-07-13)

聖書を代表する神からの二つのご命令。 1、 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 2、 あなたの隣りびとを、自分を愛するが如く愛せよ。 この言葉以上に大事な命令は無い。

ここで使われる「愛」という言葉は、アガペーという言葉である。 アガペー(愛)とは、与えられる際に相手が誰であるかの理由は無い。 無条件、無限、無制限である。

あなたは自分を愛している。 私も自分を愛している。 それは文字通りアガペーである。 私の欠点、あなたの弱点、私達の奥底に潜むおぞましさ、仮に自分の内に嫌なものが存在していたにせよ、私達は総じて自分を愛している。 すべてひっくるめて、やはり私は自分を愛している。 その愛と同質の愛で主なる神を愛し、隣りびとを愛せよ、これが聖書全体を代表するご命令である。

アガペーの意味を本当に知ったのは、クリスチャンになって聖書からであり、神からであり、十字架からだ。 決心、体感、体験、経験、確信、納得、それらは幾重にも折り重なって私の中に蓄積して来たし、多くのキリスト者も同様であろう。 十分の一はチャレンジであり、ステップであり、安らぎでもある。 神は愛なりとは、神はアガペーなりである。

聖書は十分の一に拘る。 収入の十分の一を神に捧げなさいというご命令である。 十分の一は決して少なく無い。 だが、十分の一は義務ではない。権利であると今、私は思う。 一番初めの十分の一は試練だったが、二回目からは当然の如く捧げられたことは妙に可笑しかった。 神が身近におられたことを体験したからだろうか。 毎月の給料とか、ボーナスから差し引かれる税金は何回繰り返しても、何となく腹立たしいが如何ともし難いものがある。 それらは十分の一ほどの公平さが無いからかも知れない。 しかし、税金を払うことは愛する国への捧げものでもあるが、どうも義務感が消えない。 私達は自分のすべての収入が自分のものと思わぬことが良いだろう。 十分の一は元々神のものだった、と気がつくと楽になる。 私達はすべて創造主の恵みと祝福によって生きている。 まさに創世記が言う通りである。 空気、水、太陽、自然界、生き物達、そしてこの世界すべてである。 人は一人で頑張って生きているのではない。 家庭、社会、自分を取り巻くすべてが、神の恵みの中である。

マルコの福音書12章に「やもめの女性」の行動が書かれている。 神の宮に訪れる人々は様々だ。 金持ち達は堂々と、これみよがしに大金を捧げていた。 一人の寡婦の女性がレプタ銅貨(当時の最小単位の銅貨)二つを投げ入れた。 実に対照的な景色だった。 イエスはそれを見て弟子達に言われた。 「見なさい、彼女は一番多く捧げた。皆は有り余る中から捧げたが、彼女は自分が持っていた生活費のすべてを投げ入れたからだ。」

レプタ銅貨二つの信仰。 実に僅かな金だが、実に大きい神への信頼だ。 捧げものは表面でなく、内面を見られる神へのアガペーなのか。 金持ちなら十分の一は実に大金である。 しかし貧しい人にとっての十分の一、それは命であり、血であるかも知れない。

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