■ キリストは常にポジティブである。 / ヨハネ9:1~16 (2014-07-27)

人それぞれに性格の違いがあるが、聖書の視点から見て言えることは、人間は総じてネガティブであるということ。 理解出来ないこと、不条理なこと、悲しみ、絶望、死、離別、ありとあらゆる否定的なことに対して、殆どの人間はネガティブに強いられてしまうのだ。

生まれつき、目の見えない男性を目の前にして、キリストの弟子達がイエスに問いかけている場面がある。 「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、彼の罪ですか。それとも両親のせいですか?」 何ともやるせない言葉である。 しかも、彼を前にして「この人」と言っている。 結局、信仰的霊性が有ったにせよ、現実の問題を紐解くとしたら、やはり罪に行き着くのだろうか。 イエスは言われた。 「彼の目の見えないのは、彼の罪でも両親の罪でもない。神のわざ(栄光)がこの人に現われるためである。」 この言葉以上に実感、エイメンと言える言葉があるだろうか? イエスは人間が捉われている呪い、束縛、困惑、迷いから解放してくださった。

そして聖書は果たしてどうなのか? 聖書は実にポジティブであると思う。 特に旧約聖書には破壊的な場面が多くあり、否定的な言葉が語られる。 時として、主のご命令として絶望に陥る程、暴力的な表現もある。 そしてクリスチャンゆえに迷う。

しかし、聖書は総じてポジティブである。 人間世界がどれほど神から遠ざかり、自主独立身勝手な道を生きたとしても、その先でいつか悔い改めに至るなら、そこで待っていて下さるのは神だからだ。 その部分でルカ15章の放蕩息子の話は聖書を象徴しているのである。

何よりもキリストが来られたということ自体が、聖書の神のポジティブ性の証言である。 見捨てられて当然の私達多くの人間が、クリスチャンとして、神の子として祝福と恵を賜っていること自体、神のポジティブ性の徹底である。

イエスご自身にせよ、創造主からは実に否定的な人生を強いられている。 それは人類によって迫害され、捕縛され、いい加減な裁判で死を定められ、素っ裸で殺された。 イエスはいつ頃から、未来の我が身を知っておられたのだろうか。 おそらく公生涯に踏み出される直前ではなかったかと思う。

しかしである。 彼は全く別な視線を持っておられた。 それは人類の魂と人生への救済事業であった。 やがて救われた人々が教会を構築し、世界中に福音を伝え、地の果てまでも神のことばを伝える景色をイエスは見ておられたのだ。 前向き、建設的、仮に今がどのようであれ、未来に輝くのはキリストの十字星である。 それは夢でも幻でもない。 確たる現実として幕開く時を待ち望んでいるのだ。 その幕を切って落とすのは人間であっても、すべてを備えた給うかたはキリストである。

クリスチャン信仰とは、時としてノウテンキにさえ見えてしまう。 どう見ても、どう転んでも光りさえ見えて来ないのに、賛美歌を歌えるとは、狂ったかと見まがうばかりであろう。 考えてみれば、聖書自体が既にポジティブを通り越した世界ではないだろうか。 兎に角、希望が、喜びが消えそうで消えない。 揺れる葦は弱っていても折れることなく、くすぶる灯心さえ消えることはない。 何故なら、それを守っておられる方がいるからだ。

必死になって消しに掛かる世の権力と反キリストの霊がどれほど強大であろうとも、キリストには勝てない。 ここに私達のポジティブの根源ある。 殺されても永遠の命までは奪えない。 信じる者は死んでも生きる。 よみがえりし神の御子は、死の扉さえ打ち破られた。 果たして死よりも否定的、消極的、絶望的な事態があるだろうか。 キリストおられるところ、無い。

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