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■ 洗われなければ何も始まらない/ 第二列王記5:1~15 (2014-08-17)

現在のシリヤが抱える内紛問題と、隣国イスラエルの関係は断絶状態であるが、遠い昔は案外そうでもなかった。 争いは時としてあったが、互いの交流とか人々の行き来はあった。

アラム人の将軍ナアマンは王からの信望も厚く、部下や国民からは非常に尊ばれていた。 文字通り、軍人の鑑の様な人だった。 そんな彼を襲ったものは、敵よりも恐ろしい重い皮膚病であった。 いくら戦い方に長けていたにせよ、力ではどうすることも出来なかった。

彼の妻に仕えている者は、ナアマンがイスラエルから捕らえて来た少女であった。 ある日、少女はナアマンの妻に進言した。 「私の国、イスラエルには優れた神の人がおり、きっと旦那様のご病気を治して下さるでしょう。」 妻からその言葉を聞いたナアマンは、早速に王から許可を得ると沢山の褒美と共にイスラエルへ下って来た。

エリシャがナアマンのことを耳にすると使いを出してこう伝えた。 「ヨルダン川に7度、身を浸し、洗い清めなさい。」 だが、それを聞いたナアマンは烈火の如く怒ると自国へ帰る支度を始めた。 「私の国にはヨルダン川より綺麗で美しい川は幾つもある。増してや、この身を洗い清めよだと、ふざけたことを抜かしおって。わざわざ此処までも、はるばる下って来たこの私に向かって、子供騙しでもあるまいに戯けたことを、よくも言ったものだ。」 確かに彼の気持ちは分かる。 36年前の私であるならば、だ。

ナアマンの部下が申し上げた。 「わが父よ、確かにお怒りになるのは当然です。そして彼が難しいことを申したなら、きっと貴方は、その通りにされたでしょう。だが、彼は身を洗って清くなりなさい、と申しただけではありませんか。」 冷静に考えると確かにそ7度身を浸し、体を洗った。 するとどうだろう、彼の体は幼子のからだの様にきよくなった。

ここまでの経緯で実にシンプルに信仰の真理と、人間の愚かさを指摘している。 人間とは実にいか程のものであろう。 確かに途方もないことをする生き物である。 しかし、その途方もない知恵と知識と力はどこから得たのか。 彼自身が持っていたのでなく、すべては創造主からのものではないか。 そして人間は創造主に遠く及ばない領域がある。 それは豊かな霊性である。 神からの霊性よりも、己の経験と感情とプライドを重んじる生き物である。 ここに男性の多くがキリスト教会の門をくぐれない大きな理由があると思う。

同様に私達はバプテスマや洗礼の水によって清められたのではない。 あくまでもキリストの血潮とその御名によってである。 大の大人の男性は子供騙しの様にさえ思えたが、心と言場でイエスを心にお迎えしたではないか。

ナアマンは神の人、エリシャの言葉に従った。 子供騙しの様な作業ではあったが、彼は「自尊心とプライドという化面と鎧」を自ら脱ぎ捨てた。 そして彼は神と神の言葉の確かさに生まれて初めて出会い知ったのである。

考えてみれば、救われたいと思った人が中々イエスを心に迎え入れられなかったこと。 また、私の様にクリスチャンになりたくない、説教に耳も傾けない、きっとひどい態度で礼拝の席に座っていたであろう者に、主は聖書を開かせ読ませてくださった。 そして問われた。 「あなたはこのアブラハムが圧倒的に信頼し、己が子供まで捧げようとさえした唯一、まことの神を知っているか?」

理屈でも理論でもない。 神に出会う以外、人に救われる道は無い。

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