■ 遣えば増えるもの / マタイ25:14~30 (2014-09-07)

天の御国は人間に対してどの様な問い掛けと対応をしているのか? マタイの福音書で主は語られた。 天の御国はまるで、しもべ達に財産を託し委ねて旅に出てゆく主人の様なものである。 しもべの能力(才能=タレント)に応じて主人は財産を分けた。 一人目には1タラント、二人目には2タラント、三人目には5タラントを預けた。 (当時、1タラントという価値は、一日の労賃で約6千日分というから驚きの金額でもある。)

主人が旅立つと僕達は直ぐに預かった金で商売をし、それぞれ二倍に増やした。 しかし、1タラントを預かった者は地に穴を掘って隠しただけで、主人の帰りを待った。 やがて主人が帰って来てそもべ達の財産管理の結果を聞いた。 2タラントの者は更に2タラント、5タラントの者は更に5タラント増やした。 倍に増やしたしもべ達の顔を見て、主人は心から喜んだ。 ところが1タラントを預かった僕は主人に向かって言った。 「ご主人様、私は貴方が恐ろしい方だと知っていましたので、この金を失っては大変と思い、穴を掘って隠しておきました、さあ、これがあなたの1タラントです。」 それを聞いた主人は烈火の如くに怒った。 「怠け者!仮にお前が私の金を銀行に預けておいたら、せめて利息位は得られたものを。自分の怠け癖を私のせいにしようとするのか。お前の1タラントは10タラント持っている者にやってしまえ。」 そして彼は外の暗闇に投げ出された。

私達すべては仮にどんなクリスチャンにせよ、最低でも1タラントは預かっていると思う。 タラントは自分のもののようであって、自分のものではないのである。 歌、踊り、様々な奉仕、自分の得意とするもの、そしてそれらは創造主から預かったものである。 仮に創造主を知らない人だとすると、当然であるが自分に栄光を帰することになる。 クリスチャンであるにせよ、人は元々自分の栄光を求める自己中心な生き物である。 生まれ持った才能も含め、私達は様々なタラントを預かっているのだ。

そして信仰は神からの賜物である。 神が無償で下さったものである。 私達が何をしたからではない。 はっきり言えば、何もしなかったのだ。 それはイエス・キリストの苦しみと死とよみがえりによる主の勝利の賜物である。 そのようにして勝ち取った栄光の冠を、何もしなかった私達が貰ったとしても、私達の誇る対象にはならない。 下さった方の圧倒的な配慮のおかげであるからだ。

ちなみに。。。である。 今日まで36年間のクリスチャン生活、一度として「前田さんは素晴らしい信仰の持ち主!」 などと一度として言われなかったことは幸せか非か。 確かに情けない話に違いないが、それで良かったのだとも思う。 主から貰ったものを、我が身の栄光に帰さなかったからである。

榎本保朗師の言葉が実に新鮮であり、ぐさりと我が胸を刺した。 私達も分かっているようで、曖昧にしている部分がこれだ。 「今日のキリスト者がともすると誤り陥り易いことは、キリストの精神によって自分が強くなること、立派な働きをすることがキリスト者の生活であると思っていることである。 キリスト者とは、キリストの如くに生きる人のことではない。 キリストの精神に立って今日の時代に有意義な働きを為す者でもない。 キリスト者とはキリストに捕らえられ、キリストに生かされ、キリストがわが内にあって生きる人のことである。 キリスト者にとって自分が偉大なのではなく。自分と共に居まし給うて生き給う方こそが偉大なのである。」 アーメン、アーメン、アーメン、アーメン!!

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