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■ FREEDOM (自由) / ガラテヤ人への手紙5:1~13 (2014-09-28)

ガラテヤびとへの手紙5章1節
 『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』
 

実にキリスト・イエスがこの世に来られたのは、この為である。
 「自由を得させる」、確かに私達は奴隷ではないし、この国の法律の下であるなら、何をしようと、何を言おうと拘束されることも、迫害されることもない。
しかし、私が考えるところの「自由」と、聖書が求める「自由」には大きな差があった。
 

FREEDOM とは束縛、拘束されない自由という言葉である。
 現代日本社会の実情である。
だが、言いたいことだけ先行すると、たちまちギクシャクし兼ねないのが人の世である。
したいことは出来ても、勇み兄は問題を起こすきっかけになるだろう。
 

パウロという人は幼い頃から厳しい律法の下で学び育てられた。
 彼はこの世の法律より、はるかに厳しいユダヤ教の律法の中で生長した。
だが、ここに彼がキリスト者になってから吐露した苦しい言葉がある。

 

ローマびとへの手紙7章
 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」
 

パウロは不自由だと言っている。
 「したいと思う善が出来ないで、したくない悪を行ってしまう」と。
 別にパウロが泥棒したり詐欺をしたり、人を傷つけたわけではない。
 彼は「生ける神の前で、ついついそういう生き方になってしまう」と嘆いているのだ。
 

 果たして私達は如何な者であろうか?
 本当の自由とはどういうものなのか?
そして遂にパウロは匙を投げた。
 「私は本当に惨めな人間である。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのだろう。」(ローマ7:24)
とうとう匙を投げたパウロに向かって主が語られ、そしてパウロは悟った。
 「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」第一コリント6:12
良いか悪いかを選ぶいのは神である。
 他者を尊び、我が身を生かすのは、私の自由観ではなく、神の御目である。
 言葉において、行動において、言いたいこと、したいことをするのは、幼い子供がすることだ。
 成人である私達、特にキリスト者は飲み込まねばならない言葉と、踏みとどまらねばならない一歩があるのだ。
それが出来てこそ人は益を学び、人は徳を選び取るのだ。
 

 私達は聖書が導くFREEDOMに到達してはいない。
しかし、私達は聖書が求めるFREEDOMを知った。
ならば私達は聖書がかかげた誠の自由FREEDOMを目指す。
 

そうでなければ、私達は生涯、不自由の下で我侭な罪びとの一生をおくることになる。
この世の考える自由とは、決して自由ではない。
それこそ罪の中でもがき続ける妄想の自由である。
 自分中心に生き続けることこそ、自由である結果だ、などとほざいた昔が恥ずかしい身であるが、今だに発展途上の我が身と心を、今日も慈しんで下さるキリストにすがって生きよう。
 

パウロは前掲ローマ7:24の慟哭の直後にこう綴っている。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7:25)
エイメン!!!
 

 

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