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■ 私の主 / 第一コリント2:11~16

この世にはただ三つのタイプの人間しかいないと言う。 初めに「生まれながらの人」、つまり罪から救われていない人々。 かく言う私であったにせよ、以前は皆、生まれながらの者であり罪びとだった。

二番目はキリストを受け入れはしたが、霊的成長をしていないというべきかか、進歩していないというべきか、要するに殆ど変えられていない人、つまり「肉的クリスチャン」である。

三番目、自分はキリストの十字架においてキリストと共に死んだ、つまり今生きているのは信仰による、と考える「霊的クリスチャン」である。 『私はキリストと共に十字架につけられた。最早、私が生きているのではなく、、キリストが私の内にあって生きているのである。今、私が生きているのは、神の御子を信じる信仰による。』ガラテヤ2:20 だが、この人にせよ、決して罪を犯さぬ人ではない。 依然として失敗もすれば欠けもある。 だが、いつも十字架に帰って行く人である。 今、生きる人生はキリストと共に歩み、主のことばと聖霊により頼むのである。 そこに葛藤も戦いもあるが、十字架の主の勝利を頂いて生きるのである。

今から30年ほど前に「弟子の人格」という弟子訓練に出会った。 単に弟子訓練に出会ったのでなく、主キリストに出会った。 そこで知らされたこと。 ああ、私は単に「肉の人に過ぎない者」ということだった。 だが、そのところから聖書のことばは生きて、私に語り掛ける人生となった。 神は生きておられるのだから、生きた信仰を通して語られる主の言葉は当然ながら生き生きと迫って来る。 今は無き先祖の言葉ではない。 今このとき、生きておられる主が語られるのだ。 果たして、そんな自分を知らされて30有余年、やはり今も堂々たる?「肉の人」である。

だが祝福と臨在は。昔に比して豊かに増し加えられた。 この目(肉眼)ではなく、霊的眼(れいてきまなこ)はキリストを見ることが許された。 素晴らしい主、キリストは日々、新たなる出会いと導きを下さる。 この思いを何とか一人で二人でも、他の人に分かち合いたいと願っているが、中々思うように進まない。 確かに人間の努力や熱心で生ける神を捉えることは出来ない。 ただ受身になることを恐れないで、祈り、人にチャレンジ、神からチャレンジをいただきたい。

私のモットー、それは自分はいつでも発展途上であるということ。 クリスチャンが発展途上なのだから、教会だって発展途上だ。 発展途上は素晴らしい、と思う。 但し、「伸び代」(のびしろ)を見失った者でなく、良い意味で貪欲に「成長と進化」を求めたい。 創造主に生きるなら、人は幾らでも伸び代があることを知るだろう。

はっきり言おう。良い人間像を求めることは間違いだ。 良い人なら、教会の外にだって幾らでもいる。 だが、主のみ声に従う人は希である。 教会の中にだって主のみ言葉を求める人は決して多くはない。 良い人を目指すのでなく、「主のみことばに従う者」を目指そう。 結果は必ずついてくる。 だから肉の人から霊の人に変えて下さる唯一の神、主と生き様ではないか。 多くの人がクリスチャンになった。 だが、多くの人が教会と信仰から離れた。 何故か?それはキリストとの絆、強い絆を造れなかったからではないか、と思う。

『生まれながらの人間は神の御霊に属することを受け入れません。 それは彼にとって愚かなことだからです。またそれを悟ることが出来ません。 御霊のことは御霊によってわきまえることだからです。』第一コリント2:14

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