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■ 事を為すは主である / ヨハネ15:9~17

確かに私達は礼拝し、祈り、クリスチャン同士の交わりを保ち、教会活動に従事し、聖書の学びを深めるべく努力している。 しかし、この延長線でふと気がつくことは、私達が頑張って、私達が事を為しているという私中心という取り組みに陥っていることである。 自分が汗を流し、心身が疲労困憊に近い状況まで頑張ってしまうこと自体、そもそもどこかでボタンを掛け間違えているのだと思う。 何故もっと主により頼まないのだろう。 『事を為すのは神である』のに、そうではなくて私なんだ、つまり私が事を為そうとしていないだろうか?

別に指を咥えて、ただ創造主の為すことを眺めていなさい、ではない。 常に中心がキリストであることだけは絶対に忘れてはならない。 一生懸命自体は素晴らしいのであるが、キリストを飛び越えてしまっていることが決して少なく無い。 それは人が中心なのである。 聖霊に酔いしれることは結構であるが、聖霊さまは私を感覚的に酔わせたり、思考的に我を忘れたり、恍惚状態にするために来られたのではと思う。

キリスト教は実に具体的であると思う。 難しいことをしなさい、などと聖書は決して言っていない。 聖書には「神を信頼しなさい、結びつきなさい。」とだけ書いてある。 霊なる神さまは、人間の目に見える姿となられて、この世にお生まれになった。 だから御子イエスを通して、霊なる神を知り、罪から救われなさい、である。 回りくどいことは何一つ語っておられない。 イエスを知り、彼を辿り、彼に信頼すれば必ずや神に出会うのである(ヨハネ14章)。

人間は回りくどく、複雑で難解な道が好きである。 自分に出来もしないことを他者に押し付け、さも素晴らしい事に取り組んでいるかの様に見せたいのであろうか、若しくは自己満足に酔いたいのか。

聖書の詩篇23篇はクリスチャンでなくとも感動に包まれる箇所であり、その言葉に出会ってキリスト信仰に入る人も多い。 魂を揺さぶられ、神の御姿を間近に感じ、信仰者の真摯で砕かれた心を共有出来る珠玉の詩である。 聖霊の働きに圧倒された詩篇記者の偽らざる思いであろう。 人類に与えられた最高の詩が23編とするのであれば、新約聖書マタイの23章は全てのキリスト者に語られたイエスの言葉だと思う。 私にせよ、心にチクチク針が刺す様に痛い言葉が書き連ねられている。 仮に誰であろうとキリスト者なら、いつも心のどこかに刻んでおくべき23章と思う。

聖霊の働きを明らかにする場面がある。 それは主の前に目を閉じて祈るときであろう。 エリック・デリルという有名なクリスチャン・ランナーが残した言葉。 『怒りは自分中心、祈りは神中心』・・・確かにそうだ。 祈りは人を神へと導き、中心は神である。 怒りは自分を中心にするところから起こる感情の副作用である。 主への祈りは自分がどんな感情であろうと、神の前に静まる不思議がある。 それは神を中心にしているからだ。 同時に主の前における我が心に向かい合う。 その時、私達はいかに自分が弱く情けない者であるかを示される。 それでもだ。今日救われている自分に対する神の愛と忍耐、寛容に圧倒される。 すべて聖霊の働きである。 聖霊という方を学べば学ぶほどに、神の愛の大きさと深さに出会う。

他者を赦す心、受け入れる心、思いやる心、果たして自分はなんと貧しいのだろう・・・ しかし、イエスは真心から偽り無く達を赦し、受け入れてくださった。 聖霊に頼り、委ね、まかせたい・・ 『ああ、主よ、助けてください。』

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