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■ 聖霊のちから / ヨハネ16章1~16

最近、ふと思ったことがある。 詩篇23編は今日までの時代の中で、どれほどの人々を励まし、慰め、導いてきたのか計り知れない。 私が20歳前後の頃に「エレファントマン」という映画を見た。 生まれつきの奇怪な容貌ではあったが、心は誰よりも美しい男性である。 彼が小さい頃に母から口伝えに聞いて覚えたのが、23編だった。 彼の口から、たどたどしく語られる23編は当時の私の記憶に刻まれた。 当時の私は聖書の言葉であろう位にしか感じないノンクリスチャンであったが、何故か心に感じるものがあり、映画のその場面を覚えている。

人類すべてに対して遺された詩篇23篇であるが、同様の番号でマタイ23章はすべてのキリスト者に語られたイエスの言葉であると思った。 マタイの言葉は当時のユダヤ教律法学者、祭司、そして熱心な宗教グループと言われたパリサイ人達、サドカイ人達である。 イエスが痛烈な批判の言葉を浴びせたのはそういう類いの人々であった。 そして、よく読んでいくと、それらは現代の私達クリスチャンにとっても決して的外れではない指摘である。 私達もよくよく自分の生き方を聖書を通して見張っていないとしたら、マタイ23章は「実によく言ったものだ」と思わざるを得ない。

そこで感じたことは、イエスを受け入れた時に与えられた主の聖霊の御支配を受けるべく生きたいものだと考える次第である。 父、御子、御霊、三位一体(さんみいったい)の神は、神格(地位、資質)において同格であられる。 父だから特に偉いとか、子であるから父より低いとか、最後に来られた聖霊は三番目などと考えるのは、単純なる人間的価値基準に過ぎない。 私達が内受した聖霊は間違いなく神である。 神に直結しておられるし、父にも御子にも直通しておられる方である。

マタイ12章で語られる主イエスのみことば。 『だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。』

私達の教会は確かにバプテスト派である。 聖霊派でもない。 しかし、聖書が言われることを霊的に覚めた感覚でなく、偏ることなく、聖書を素直に読み取る者達として、聖霊に満たされ従う信仰と教会、交わりと礼拝において、聖書と御霊の導きを尊んで受ける者でありたいと思った。 聖霊は罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせる、とヨハネ16章にある。 創世記1章において創造主が語っておられる。 「われわれに似るように。われわれのかたちに、人を造ろう。」 霊なる神は数えることが出来ず、個別でなく、物体的でもない。 ただ、信じるところにおいてのみ、知ることの出来る神である。 聖霊の力に頼って日々生きたいと願う個人であり、教会になりたい。

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