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■ 彼の教会 / 第一コリント12:1~13

北米の川に住むビーバーという動物は、ダム造りの名人?と昔から聞いていた。 木々の枝を集めては川を堰き止めるのであるが、半端でない仕事をするらしい。 50メートルの川を堰き止めるダムなど朝飯前である。 信じられないが500メートルの川幅だってダムの対象らしい。 強靭な歯で大木を齧り倒しダムの骨組とする。

見方によってはとんでもない公害獣かも知れないが、姿かたちは実に愛らしい。 私達と神さまの間にも、知らぬ間にビーバーが入り込んで厄介で強国なダムを造ってしまうことがある。 神が与え給うた知恵は恐ろしい程である。

ビーバーが造るのか、人間の本性が造るのか? まさか本物のビーバーが人の内に住むわけもない。 第一、 私達の内側と本性はお世辞にも可愛いなどとは言えない。 大体の場合、強固なダムが出来上がってしまってから気がつくのである。

最近、聖霊の風が吹いて来ないぞ。 御霊の水が流れて来ないなぁ。 気持ちの中で何かが変わってしまった時点で、そのことに気づく。

聖書の言葉が入って来ないなぁ。 賛美する歌声に力が入らない。 聖書の言葉も、メッセイジも届いて来ない様に思える。 どこかしらけている。 何が変わったんだろう。

人間である限り、いつも同じ状態を保つことなど出来ない。 心も気持ちも感情も絶えず動き、変わるものである。 でも変わらないのが主なる神である。 キリストはいつだって変わらない。 そこだけを信じればよい。

「文字は殺し、御霊は生かす」(第二コリント3:6) これが旧約と新約の決定的な違いを表すことばである。 但し、主イエスはその文字、つまり律法を成就するためにおいでになられ、十字架で人類を贖って下さった。 故に我々はイエスの御霊によって生きることが出来るのである。 御霊が働かれる私達の霊と魂において、沢山の塵やクズが溜まって霊性を鈍らせてしまっては聖霊の水は滞り、御霊の風は吹き抜けない。 自我とプライド、傲慢と鈍感はどうしたら解決できるのか? 主に対して罪の告白と自認、悔い改めだけが道である。 つまり自分の罪というビーバーが造った堤防を破壊し、神さまの助けによって撤去するのである。

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