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■ アドベントⅣ 今こそ神は見させ給う / マタイ1章1~21

多くの人が聖書読破に挑戦する。 マタイ一章を開き、「さあ、行くぞ」と読み始めて、いきなりガクッと挫ける。 やたらカタカナ名の羅列である。

しかし、である。決して羅列だけではない。 先ず、アブラハムという名前から始まっている。 アダムもいた、ノアもいた。 何故アブラハムからなのか? そんなこと、クリスチャンになっていない人に聞いても解ろう筈もないが。 仮にクリスチャンであったにせよ、ちょっと難しい質問である。

イエス・キリストの系図を知らせるためにマタイが伝えたかったこと。 創造主は人間の中で、初めてアブラハムと契約を結んだのである。 彼は祝福の基となった。 人類で初めて神から約束を受け取ったのがアブラハムであった。 彼と彼の子孫は、神に選ばれて彼らの神の栄光を現すべく、その営みは常に主の前に置かれた。 そして、やがていつの日か彼らの末裔に、罪から贖う約束のメシヤがお生まれになると主はいわれた。

神の選び、約束、そして成就へと続く選民の歩み。 しかし、神が考えることと、人が考える道は違う。 その営みは多くの場合、神の道を踏み外し、葛藤と裏切り、欲望と保身的な選択により失敗の連続であった。 だが、神の選びはぶれることなく、やがて間違いなく訪れる約束の成就に向かって行った。 イスラエルがどれほど肉欲と自我の暴走に突き進んだときも、神は方向を変えることはなさらなかった。

かの名前の羅列の中に4名の女性が登場する。 その4名以外に女性の名は記されていない。 先ず、ユダはタマルによってペレツを生んだとある。 彼女はユダの長子の嫁であるが、ユダは息子の嫁によって跡取りを儲けたのである。 次にラハブ、彼女はエリコの町の遊女であったが、分けあってイスラエ人の妻に加えられた。 ルツ、彼女はモアブ人であったが、モアブに移り住んだ家族の一人と結婚した。 しかし夫が死んで尚、彼女は姑のナオミに従って故郷を捨て、ベツレヘムにやってきた。 そこでの出会いがナオミと縁戚にあるボアズであり、彼女は彼の嫁となり、オベデを生んだが、オベデのひ孫にダビデが登場する。 ダビデ王は「ウリヤの妻」によってソロモンを生んだ。 ウリヤとはダビデの忠実な家来であったが、ダビデ王に妻を寝取られたばかりか、自分は間接的にダビデに殺された。

おどろおどろした人間の営みの中でも、メシヤの到来はそういった血筋から外されることなく、真っ直ぐに突き進む。

凡そ約30世代を経て、マリヤの夫ヨセフが生まれ、キリストは処女マリヤから聖霊によって、お生まれになった。 人間は間違ったが、神は間違いを犯さなかった。 確かに神は人間の間違いを、良しとはされない。 しかし、創造主は利己的で気儘勝手な人間の営みの中であろうと、ご自身の計画を達成された。

ヨセフはマリヤに対して何をしたわけではない。 神が彼女を選び、受胎告知を彼女とヨセフに為された。 子の名前まで神が決められた。 「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださるからです。」 @イエスとはヘブル名でヨシュア、意味は『主は救い』。

ヨセフに求められたことはただ一つ、神を信じて従う信仰だけだった。 ヨセフ自身、曲がったことの大嫌いな正直な人だった。 しかし、ならばこそ、尚更に道理が通らないことは受け入れられないものである。 そう考えるのが人間の道理だが、彼は違った。 迷う頭と心の中で苦しんでいたが、夢の中で語られた御使いの言葉を信じた。 「ダビデの子、ヨセフ。恐れないであなたの妻、マリヤを向かいなさい。その胎に宿っているものは、聖霊によるのです。」(マタイ1:20)

彼の様な信仰を誰が持てるだろう。 しかし、信仰そのものは神からの賜物である。 問題は、信仰の形と色と中味と質に、何を選ぶのかが私達であるということだ。 更に信仰を生かすか、殺すかも私達である。 神さまは、それだけを問うておられるのではないだろうかと思う。

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