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■自分か神か / 第二歴代誌13:1~18

信仰生活の取り組みで大切なことは「普段」ということと、「不断」ということである。 文字は違うけれど、意味合いは似ている。 絶え間なく、いつもどおり、と言う様な意味である。 キリストを想う?思う?人の気持ちは日々異なるものだ。 それは私が人間であるからだ。 そこに弱さもあれば、欠点もある。 気変わりもあれば、感情の起伏も情緒的な変化もあり、価値観の変化だってある。 仮に理知的な理論を広げたとしても、いつも全く同じという訳でもないだろう。

凡そ2930年ほど前のイスラエルに「アビヤ」という王様がいた。 名前からすると「神はわが父」かと思う。 たった3年間だけの王だったが、歴代誌の王達に比較してみると中々の人だった。 祖父のソロモンは変態親父の様な人だったし、父は悪王だった。 そういう家系の中で、よくぞ彼の様な息子が育ったものだと感心した。

当時エルサレムの北側には、謀反者のヤロブアムという人がいた。 エルサレムに座するレハブアム王とは折り合いが悪く、両者は絶えず戦争していたが、レハブアムの息子、アビヤの時代になっても憎しみあうこと自体に変化はなかった。 文字通り「負の遺産」を背負ったアビヤだった。 どうしたら長年の確執が変えられるのだろう。 過去はひっくり返っても変えられない。 ならば、人の心をひっくり返すことしかない、と思う。 イエスのところに行く以外、人の気持ちも心もひっくり返れないことは事実である。

ある日、アビヤが北側に対して戦争を仕掛けた。 仕掛けた割には、アビヤの側は圧倒的に旗色が悪かった。 アビヤ側は40万の兵隊、ヤロブアム側は倍の80万の兵士。 しかし、アビヤには心に秘めたものがあった。 それは主なる神が共におられるという確信である。

アビヤは山上からヤロブアムと敵軍に向かって叫んだ。 『お前達は誰と戦おうとしているのか。我らこそ、主なる神が共におられる軍隊だぞ。 我々は唯一、まことを尽くしてイスラエルの神を礼拝し、レビ族による祭司による律法を学び、教えが示す捧げものを主に捧げ、夕方には灯火皿の灯を切らしたことなく燃やしてきた。 それに引き替え、お前たちが仕える神々は「金の牛」であり、好き勝手に選び出した名前ばかりの祭司ではないか。 見よ、祭司達は今か今かと進軍のラッパを待っている。 イスラエルよ、あなた方の父祖の神、主と戦ってはならない。』

アビヤの不断の信仰が、この危機の中で証しとなって敵軍に響き渡った。 だがヤロブアム軍は兵の半分を迂回させ後ろに配置し、前と後から挟み撃ちしよう試みた。 アビヤ軍が振り返ると敵は既に背中にも迫っていた。 そのとき、アビヤ軍の祭司達はラッパを吹き鳴らし、ときの声が上がり、戦いの幕が切って落とされた。 「ラッパとときの声」とは悲鳴ではない。 敵がいかに多くとも、頼りは主であるという信仰の勇気からの雄叫びだった。

そして聖書は言う。 「その時神は、ヤロブアムと全イスラエル(北軍)を、アビヤとユダの前に打ち破られた。」 急場しのぎで、そういった信仰はとてもじゃないが持てない。 問題は普段である。 普段の何気ない生き方、神を想う、神への信頼こそが、急場が来ようと発揮されるのである。 困った時の神頼みでも、イエスさまは寛容な方だから助けて下さることが多々ある。 しかし、不断の生き方こそが信仰を耕し、構築するのである。

小石を拾い、雑草を摘んで抜き、水を与え、耕し、種を蒔くならいつの日か必ず芽を出し花を咲かす。 神の畑だってそういうものだ。 あきらめない、ここから普段の実がなる。

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