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■ 人心自ずと神に向かわず / 第二歴代誌33:1~16

果たして人の心は自然と神に向かうのだろうか? 確かに人間は生まれついて宗教心を持っていると思う。 だが、人の心は己が好む方向は求めたとしても、聖書の神である創造主、そしてキリストに向かうことは非常に希だと思う。 人間はもともと自分が好む神々を望むからである。 聖書の神は私達に対して何かと注文をつけている様に思うだろうか? あれは駄目、これは駄目、確かにそう感じる部分が確かに少なくもない。 だが人間は大切なことを忘れている。 聖書の神は天と地を造られた万物の創造主であって、人間が作った神々ではない。 だから人は創造主に対して従順に生きるべきである。 と、書くと当然面白くないのが人間である。 従順、べき、すべて禁句であるからだ。 この禁句が禁句でなくなる様な自分を求めるべきである。 そもそも人間は自らが神でありたいと願うし、人々に神扱いさせたい願望を持つ生き物である。 地位、権力、財力、名誉、どれをとっても人間の願望ではないか。 人は被造物であることは認めても、それ以上を認めたがらない生き物だ。 遠い昔、ユダの国にマナセという王がいた。 若くして王位に着いたのだが、彼は主の前に次々と大きな悪を積み上げた。 彼の父、ヒゼキヤの行動に比べると、天と地ほどの差があった。 エルサレム神殿にカナンの偶像を据え、天の万象を拝ませ、父が排除した偶像を国のあちらこちらに持ち込み、人心を惑わせた。 卜占、霊媒、口寄せ、呪術、ありとあらゆる悪を行ったと聖書が語る。 (まるで、どこぞの国の様ではないかと感じてしまう。) つまりマナセは先祖の時代にモーセを通して与えられた律法の教えを、ことごとく地に捨てたのである。 聖書は言う。 「主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうとはしなかった。」(第二歴代33:10) 遂に主は北の帝国アッシリヤの将軍を動かし、マナセを捕らえさせ青銅の足枷につないだ。 その悩みの中でマナセは大いに主の前にへりくだって、悔い改めて主に赦しを祈ったので、マナセは赦され、彼は「主こそ神である」と知った。 この短い時間の中でマナセはどの様にして悔い改めたのだろう。 ふと思ったのだが、彼は夢を見させられたのではないかと思う。 彼自身、自分がして来たことが主の前に大きな悪であり、その罪をひしひしと感じていたのだろうか。 そういう日々のカナである晩見た夢で、罪の奴隷となった身の上を見させられた瞬間、ハッとして我が身の罪と恐ろしさを知り、目覚めたのではないだろうか。 その時点、戦争にさえ至っていない状況など考えると、一節で語られる出来事は彼が見た夢であり、その夢で彼は神に立ち返ったのではないかと思った。 マナセは人が変わった様に、主の宮とエルサレムかに築いたすべての偶像の祭壇を取り除き、町の外に投げ出した。 主の祭壇を築き、和解の生け贄をささげ、ユダの民に命じてイスラエルの神、主に仕えさせた。 旧約の神は厳しいというイメージを私達は持っている。 果たしてそうだろうか? 新約の神は生ぬるいだろうか? そうではない。 神はご自身のひとり子を十字架で殺している。 罪無き子羊の如くに、殺した。 殺したのは人類すべての罪を贖うためである。 これをなさったのは新約聖書の神である。 キリストを信じただけで全ての罪を赦されること自体に人間は疑問をもっている? ならば私達はこの目で十字架を見上げていないからか。 この耳で主の叫びと苦しみの声を聞いていない。 もし、生身のイエスが太い釘で打ち付けられ、数時間もそのままで捨て置かれ、滴る血潮を目の当たりにし、この世の不条理を一身に背負ったイエスを見上げでも、新約の神は生ぬるいと言うだろうか? 歴代誌の神は厳しいだろうか? マナセは国民の先頭に立って、主が忌み嫌うことを、罪を犯させた。 その間、主はずっとマナセを見ておられた。 忍耐、寛容、慈愛、誠実の創造主は一貫して人間の営みを見守っておられた。 ひたすら人間が罪を悟り、主にのみ立ち帰ることを待ち望んでおられる。 ローマ4章6と8節 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

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