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■ 生ける神、生きる信仰 / マタイ16章13~17

日頃イエスはご自分のことを必ず「人の子」と呼んでおられた。 それは彼がメシヤ(救い主)であり、神の御子であることを敢えて隠しつつ、同時に強いインパクトを人々に与えられた、と後日、聖書を記した人々は考えたと思う。 おそらく弟子達の誰もが以前、不思議に感じたであろうことは、「先生はどうしてご自身を人の子と言われるのだろう?」ということ。 救い主であると誰にも明かさなかった。 あのピリポ・カイザリヤの日までは。 ピリポ・カイザリヤ、雪解け水が音を立てて流れる川淵に立たれたかも知れないイエスは弟子達に向かっていわれたものだ。 「人々は人の子(わたし)を誰と言う?」 弟子の誰かが答えた。 「はい、バプテスマのヨハネと言う人があり、エリヤと言う人もあり、預言者だと言う人もおります。」 「ならばあなた方はわたしを誰と言う?」 間髪を入れずにペテロが言った。 「先生、私はあなたこそ、生ける神の御子、キリストです!」 世界中には数知れない程の宗教がある。 あるのではなく、人間が作ってきたのだ。 やがては必ず死んで朽ち果てる人間が作る神は、初めからいのちなど無い。 初めから朽ち果てている。 しかし、ここに唯一、生きて働かれる神がおられる。 天地創造の主、ヤハウェである。 遠い昔からへブル人達だけが信じ、礼拝してきた主と呼ばれる神である。 神は霊であるから人の目に見える存在ではない。 しかし、彼らは見えずとも「我らの神は生ける神」と信じて疑わなかった。 旧約聖書に登場する神は文字通り「生ける神」である。 私達人間、やがては死すとも今は生きている。 体を切れば血が噴出すし肉もある。 生きている証拠だ。 だが神は目に見える「みからだ」を持たない。 だが、生きている。 永遠に生きておられるか方だ。 「神は死んだ者の神ではない。」とイエスはいわれた。 聖書の神は生きている者の神である(マタイ22:32)。 生ける神を信じるクリスチャンの信仰は生きて当然なのである。 死んだ信仰であろう筈が無い。 死んだ信仰とは「生き遣い」が無い、「呼吸が無い」「動かない」ものであり、「脈も無い」。 個人を動かす力も無い。 生ける神が伴う生活なら、自ずと生き生きとなってしまうものだ。 強いられたものでなく、義務でもない。 だからと言って苦難や迷いが無いわけでもない。 人生そのものが様々あるように、迷う日も、泣く日も、笑う日もあるだろう。 しかし祈るとき、主の言葉に出会うとき、現実の世界で生ける神に出会うことが出来る。 今、あなたの信仰はいかがだろう。 生ける神は生きた信仰を求める。 生ける信仰は静止してはいられない。 誰がどうだ、彼がどうだ?』だと聞かれるならば・・・あなたは何と言うだろう。

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