■エリ、エリ、レマ、サバクタニ 《神よ、わが神よ、何故に我を見捨て給うや》 / マタイ27:27~51

およそイエスほどに苛められ、虐待され、殺された人は幾人いただろうか。 増してや彼には一点の反社会的な背きも罪もなかった。 小突かれ、馬鹿にされ、あざけられ、唾をかけられ、殴られ、赤い衣を着せられ 嘲笑され、鞭打たれ、十字架に釘で手足を打ち付けられ、槍で突かれた。 何一つ人としての尊厳を顧みられず、不平を言わず、黙々と為されるがままであった。 「その日」から遠い昔、約750年前に語られたイザヤ書53章の預言は成就された・・・ 屠り場に引かれる羊の如く、背きの罪に罰を受ける罪人の如く、埃まみれと流れる血潮に染まった御顔はひたすら天を仰ぎ、人にも神にも恨み言ひとつ言わなかった。 極限に達した痛み苦しみの中で主が呻いた二つのことば。 『父よ、彼らを赦し給え。彼らはその為すことを知らぬがゆえ・・・』 『神よ、我が神よ、どうしてわたしを見捨て給うたのか・・・』 この二つの言葉を私達はどの耳で、どの心で今日まで聞いて来たのだろう。 イエスはヒーローではなかった。 「彼は他人を救ったが自分を救えなかった。」 奇しくもイエスを死に追いやった者の口をついて出た言葉である。 ヒーローは人々を救い、自分も炎の中をかいくぐって帰還する。 人々から賞賛の声を聞き、場面はハッピーエンドで幕を閉じるのだ。 トラジック(TRAGIC)という言葉がある。まさに悲惨そのものがイエスの最後だった。 メシヤはそうやってカルバリの丘の露と消えた。 日本人は人生の不条理に遭遇した時に言うだろう。「神も仏もあるものか。」 そして私達は言うだろう。「神よ、どうして私を見捨てられたのか。」 だが、そう言える程に主の傍で生きていたのだろうか。 そう言えるくらい、イエス信じて頼って生きていたのだろうか? 思わず口をついて言うほどにイエスに期待して生きたのだろうか? みよ、イエスは天の父を100パーセント信頼し、従い、生きたのである。 彼はヒーローどころではなかった。 彼は弱者の代表だった。 メシヤという使命の前に、そう生きざるを得なかった。 彼は私達人間の救いのために弱くなられた。 だが、彼が弱くなればなるほどに、イエスは強く生きられた。 彼の強さは人類の救いのために、神のみ旨に従われたこと以外に無い。 しかし、それらは凡そ人間が考える強さではない。 この世が考える勇気のイメージではなく、「神に対する従順」という「真の勇気」を教えてくれた。 パウロはそのことを悟り得た人である。 彼は、誇るなら自分の弱さを誇ろうと言った。 神の強さは、人間の弱さの中において完全に現れると言った。 今、私達は弱さに於いて真の勇気を知ったのである。 牧師の息子であったニーチェが言ったそうだ。 「キリスト教は弱者の宗教である。」 ありがたいことだ。間違っていない。 イザヤ書41章。 「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな、わたしがあなたの神だから。 わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」 大分前であるが、このみことばから大いに力を与えられ、感動したものだった。 だが、次のことばに胸を抉られた。 『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。』 虫けら?・・・・愕然とした。 でも、それも納得した。 そうか、俺は虫けらに成りきれていなかった。 虫けら?大いに結構ではないか。 神はイスラエルを「虫けら」と呼びつけられただけではなく、「わたしがあなたを助ける。」といわれたのだから。 あの日、私は下りようと思って迷っていた階段の踊り場から再び昇り始めたものだ。 クリスチャンに躓いている方、教会に愕然としている方、信仰生活に疲れた方、 創造主の前における我々などまるで虫けらではないか。 虫けらはプライドもメンツも持たない。 取り合えず多少の自尊心があれば良いではないか。 主はイスラエルを虫けらと呼ばれた。 改めて、自分は虫けらかと認識してみれば、随分力も抜けるし、妙に腹も立たないものだ。 あの日、私はイザヤ書の虫けら呼ばわりに嬉しくて嬉しくて涙があふれた。 もう十数年も昔のことだ。

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