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■ あなたの指でなく、手でもなく、あなたの心と人生で / ヨハネ20:16~29

惨殺された人がよみがえった! それを信じたことから、キリスト教という信仰集団が生まれた。 簡単に言うとキリスト教の中心はこの部分、死者のよみがえり信仰にある。 世の道理を馬鹿にしたというか、子供も騙せないようなストーリーである。 しかし、その出来事が、この世を真っ逆さまに変える出来事であり、中心となった。 何故なら、それを抜きにしてキリスト教は存在し得ないのだ。 通常、宗教というものは、やはり魂の救いが目的である。 確かにそうであるが、ことキリスト教においては、それよりも幾重に広く高い領域へと重なっている。 それは単なる個人の救いに留まらない世界を人間世界に供給している。 本来人間が生まれもっている感性、創造力、思考、慈愛、道徳性などを、より育てるだけでなく、それらを持っていなかった人、若しくは非情に希薄だった人に対しも、新なる変化と可能性を与え続けてきた。 この「不思議」を別の言葉で表現するなら実に簡単だ。 「神は3日目によみがえられたキリストの驚くべき力と愛によって、人を再創造される。」である。 毎年イースター(主キリストの復活祭)の日が訪れる。 時期はその年年によって異なるが、迎えるクリスチャンにとってはこの上なく嬉しい日である。 その喜びはカレンダー行事の範囲をとうに超えてしまっている。 お祭りというものの枠には決して収まらない爆発するような喜びの日である。 1988年、私はイスラエル旅行(聖地ツアー)に参加した。 聖書の歴史に基づき名所古跡を巡った。 ここがイエスが生まれた場所、と言われても、ピンと来るものなど何もない程、様変わりした場所もあった。 返って何も無い場所の方が妙に実感を伴ったりした。 どうも人間の力とか着想が過剰に加わってしまうと、本来もっている実感が極度に薄れるものである。 だから聖書記事のイメージを頭の中で重ねながらの旅でもあった。 イエスがゴルゴタの丘で寝かされ、十字架に張りつけられた場所は、文字通りの聖書からのイメージであった。その丘の下の方に横穴の墓所があった。 丘といい、墓といい、まさに聖書からのイメージはピタリと一致した風景だった。 墓の中は4畳ほどの広さで、大人でもゆったり出来る空間だったが、あくまで参考までに、という意識が働く。 しかし、帰ろうとして何気なく見上げた鴨居のプレートに書かれた言葉を実上げた時だった。 『彼はここにはいない。彼はよみがえらえた。』英文字で、目立たない様な大きさと字体でそう書かれていた。 完璧に、ガ~ン!!であった。 Hallelujah!という思いと言葉が自然と湧いて出て、涙が胸からこみ上げた。 そうだ、主はよみがえられた。 人間を最後まで苦しめる死と罪と悪魔に勝ちしキリスト・イエスが、よみがえられた。 とかく頭で聖書を確かめ、頭で信仰の取り組みを組み立ててしまう私達。 仮に其処がイメージ先行で選ばれた場所であれ、イエスは殺され、葬られ、復活された事実は事実だ。 原始キリスト教会を見よ。 何故クリスチャンが生まれた? 何故、教会が出来た? 何故、世界に福音が広まった? それはイエスがよみがえられたことの一語に尽きる。 目に映る情景でなく、私の魂と霊を捉えてくださったのは御魂なる主ご自身である。 信仰は思考を先行しない。 信仰は理論で裏付ける対象でもなく、立証するものでもない。 信仰は守るものではない。 信仰は自力で構築するものでもない。 イエス・キリストの父なる神さまの働きと招きに呼ばれ、主の圧倒的な助けの下に参加して行くのである。 失敗?すべて恐れることはない。 自分という器?誇ることも卑下も必要ない。 イエスと生きよう。 信仰とは、ひたすら主を信じ、信頼することにある。

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