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■ ザアカイ! / ルカ 19:1~10

クリスチャンであればこそ罪の自覚は当然だが、同時に人間であればこそ得手な者は少なくないと思う。 しかしこの事に関する限り、敢えて苦味を堪え取り組むべきである。 聖書の言葉は真理である。 ルカ7章「多く赦された者は多く愛し、少し赦された者は、少しだけ愛する。」 つまり、多くの罪を自覚してキリストに赦しを乞う人は、多く赦され、その分だけ多くの愛を受けると共に多くの愛(感謝)をキリストに捧げるということである。 一般的に考えてみても、人間の罪は計り知れない程に多いと思う。 仮に、であるが罪が少ないと自覚する人は、自分の心のほんの上辺を見ている程度で、底に沈んでいる汚泥に気がつかないだけだ。 思いがけなく何かのことでかき回されたりすると、想像もしなかった様に泥が舞い上がる。 また、罪を自覚できない場合、こんな御言葉もある。 「為すべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪である。」ヤコブ4:17 私達は仮に、行った罪には敏感だとしても、無認識、無感覚で済ましてしまう罪に対してどこまで敏感であろうか。 エリコという町に住んでいた大金持ちであり、嫌われ者の取税人ザアカイはイエスが町に来るという噂を聞いて是非、一目見たいと思った。 イエスを見ようとする群集で前に出られず、背が小さかったこともあり、彼は「いちじく桑」の木にするすると登った。 そのとき、イエスが真下を通り掛かられた。 ザアカイがイエスを見下ろす間もなく、主は彼を見上げて言われた。 「ザアカイ! 急いで降りて来なさい。今夜はあなたの家に宿を取ることにしてあるから。」 その数秒間を構図にしてみた。 木の上からイエスを見下ろす罪びとザアカイ。 そしてザアカイを見上げるキリスト・イエス。 想像して欲しい。 「これがキリスト教」なのだ。 キリスト教の真髄が此処にあるではないか。 罪びとが見下ろし、救い主が罪びとを見上げている。 もし、あなたがキリスト教とは何かを知りたいと思ったら、この構図を思いだして欲しい。 もし、あなたが信仰に行き詰っているとしたら、あなたを見上げるイエスを思い出して欲しい。 もし、あなたが赦せない人がいたとしたら、ザアカイを見上げるイエスの眼差しを想像して欲しい。 ザアカイは大急ぎで木から滑り下りて来ると、大喜びでイエスを自宅へ招いた。 すると皆は呟いた。 ここにも真理がある。 イエスは我々のところに客となられたのでなく、「私という罪人」の客になられたのだ。 私はこれまで多くの人にこう言って入信の導きをして来た。 「さあ、いかがですか。イエスを心にお迎えしましょう。」 つまり罪人の魂と人生にイエスをお招きした次第である。 もう一つの真理が潜んでいる。 人々は互いに自分達を差し置いて、「彼は罪人の客となられた・・・」と言った。 果たして21世紀の今、ザアカイの客となられたイエスを見て、教会とクリスチャン達は思わず呟いてしまわないだろうか? 「見なさい、彼は罪人の客になられた。」 私達もザアカイと一緒になって大いに喜ぼうではないか。 これ以上の喜びはないのだから。 イエスは既に私達罪人の客ではなく、主である。 イエスの言葉が嬉しい。「今日、救いがこの家に来た。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10) だから私達は救われたのである!

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