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■ 主は葡萄の木、私はその枝 / ヨハネ15:1~10

一般的に葡萄の枝には三種類がある。 実のなる枝、そして実のならない枝、最後に枯れ枝。 枯れ枝なら間もなく自然と折れて落ちる。 実のならない枝なら即、根本から切り落とされる。 「実もならねぇくせに、栄養だけ取りやがって。」と、怒りっぽい農夫なら言うだろう。 実のなる枝は更に大きな葡萄の房をつけさせるために刈り込まれる。 ヨハネ15章ではイエスが葡萄の木で、私達はその枝であると言う。 葡萄の実とは、主の御用に立つ者、主に栄光を帰する者、他の魂を主の下に連れて行く者などであろう。 実をつける力と養分はキリストから来る。 だから枝は幹であるキリストにつながっていなければならない。 つながっているべき、とは言わない。 繋がっているからこそ枝である。 離れた瞬間に枯れ枝である。 ここで云う「繫がる」とは日々における状態である。 仮に日曜だけ聖書を開いたとしても、それを繋がっているとは言わない。 常時繫がっているから、繋がっていると言う。 つまり、キリストに密着しているからこそ生きているのだ。 ヨハネ15章は言う、「わたしを離れてあなた方は何もすることが出来ない。」と。 たまに主を賛美しても、たまに祈ってとしても、たまに聖書を開いたとしても、その程度では繋がっているとは言えない。 第一、 繋がっていない枝に主の力と栄養など通って来よう筈がない。 イエスは非常に寛容で優しく、思いやりのある方である。 初めの約束は生涯有効なのだ。 このような神がおられるなんて知らなかった。 と、37年クリスチャンをさせていただいた私は思う。 自分でなった訳ではない。 なろうとして成れるわけもない。 ただ神によって生まれたのである(ヨハネ1章13節) 新生賛美歌500番の「イエスがいなければ」という歌がいい。 イエスがいなければ何も出来ない、という。 イエスがいなければ生きるすべなし、とある。 そのとおりだ。 だが、何故か多くのクリスチャンたちは、そうは思わないらしい。 キリスト教会に通い、クリスチャン(キリストの者、キリストのやから)になったのに、内なる思いとキリストに向かう気迫がどうしても希薄に感じるのは何故か。 自分はキリストの枝、という認識の薄さだろうか。 私には分からない。 事実、私自身も時としてそういう時が少なくない。 人のことをとやかく言う立場でもない。 しかし、こういう者が取り敢えず、今日も幹に留まっていられ不思議はなんだろう。 果たして一人合点なのか。 考えても分からないくらい、神の愛は深いからか。 人間などに理解出来ないほど、神の愛が強いから? そうかも知れない。 人は己の力で神に留まることなど出来ない。 主の圧倒的な愛の迫りと熱心があればこそ、だと思う以外に理由は見つからない。 旧約聖書と新約聖書が見上げる主は間違いなく同じ神さまなのか? それは間違いない。 同じ主、同じ御霊なる神さまである。 創世記(ノア)の時代、神の子と人の娘達が結ばれて行く件(くだり)がある。 「神の子らは人の娘達がいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分達の妻とした。」(創世記6:3節) 神の子らは神の戒めと導きの中に生きていた。 人の娘達はこの世の放縦と人間中心の世に生きていた。 神の子らは娘達の外見的な美しさに惹かれたのである。 やがて後、地上には悪が増大し、心に計ることはすべて悪いことだけに傾いて行った、と書いてある。 主は仰せられた。「わたしの霊は永久には人の内にとどまらないであろう。」 (ただ平々凡々としたいことをして生きる人生だけなら、神の霊は人の中にとどまることは無い、のである。) キリストに留まり続けるとは、神の赦しと祝福を個人の体験をもって理解しなければ適わぬことである。 キリストに繫がる意識と実感、神への渇望と満足、感謝と充満であって、何をすればではない。義務でなく恵みである。

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