■振り向くな / 創世記19:12~29
刑法に抵触しないとはいえ、人間のモラル面で最も酷いことは、性的堕落である。 人間はそれを無視出来ても、決して主は無視されない。 Sodomyという単語は創世記に登場する町、ソドムとゴモラから付けられた。 「おぞましい」という意味の範囲を超えた、およそ人間が為す汚い行為様々である。 それが21世の今、堂々と世に出現し始めたことは、神の怒り到来の終末近し、と思わざるを得ない。
アブラハムの甥、ロトは叔父と別れ、広い荒野よりも低地の潤った土地を選んだ。 ソドムとゴモラの町は「ツォアル」(この名を覚えて欲しい)のほうに至るまで、非常に良く潤っていた、と聖書は言う。 何をもって潤っていたと聖は言うのか。 思わず考えてしまった。 一方、アブラハムは広大ではあるが渇いた荒野を選び、二人はそれぞれの場所にテントを張り生活を始めた。 ロトは初めソドムの外に住んでいたが、十数年暮らす内にいつの間にか町中に住むようになっていた。 何が彼をその様にしたのかを聖書は語らないが、快楽と派手な賑わいはロトの心を蝕んだのであろう。 淋しい荒野よりはソドムが持つ力は大きな魅力だったのだろうが、神がどちらを望まれるかは自明の理である。
ソドムとゴモラに神の怒りと粛清が近づいていた。 果てしなき人間の欲望が為されるところ、必ず神の怒りを呼ぶ。 モラルとは、一角が崩れるとやがて全体の崩壊が始まり行き着くところまで行く。 きっとツォアルという小さい町でさえ、ソドムの隠微な香は漂っていたと思う。
ある日、主の御使いがアブラハムの前に立った。 アブラハムはひれ伏して彼らを向かえた時、彼らはソドムの滅亡をアブラハムに予告した。 聞いたアブラハムはロトと家族を思い、必死にとりなした。 「あの町に、もし正しい人が10人いたら、どうか町を滅ぼさないでください。」 これがアブラハムに出来る最後の願いであった。 そして、御使いはソドムの町へと歩を進め、ロトと家族に出会うも町は堕落の限りを主の御使いにさえも示した。
やがて御使いとロト、彼の娘二人が後方に聞いたのは、恐怖と苦しみから逃げ惑う人々の叫び、そして空から降り注ぐ火と硫黄の雨は、人と町を限りなく焼き尽くす高熱と破壊がもたらす異様で激しい音だった。 御使いはロトと家族をせかした。 「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」 ロトは執拗に彼らに頼んだ。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。私はもう走れません。どうかあの小さい町,ツォアルへ行かしてください。あそこはあんなに小さい町ではないですか。」 そして、御使いはロトの願いを聞かれた。
何故、ロトは山に逃げるのを拒んだのか。 彼にとってツォアルは何だったのか。 それを聖書は語らない。 しかし、ロトは数日だけツォアルに滞在しただけで、結果的に山へ逃げている。 おそらくツォアルに対する主の制裁を想像したからではないか。 命からがらの場面に至っても、尚更に気持ちの中で光り続けるものは何だったのか。
果たして私達のツォアルとは何なのか? クリスチャン生活とは別に自分に影響を及ぼすものがあるのだろうか? キリストへ近づくことを遮る様な存在があるのか? 簡単に捨て切れない、振り切れないものは?
ツォアルは有る、と思う。 多かれ少なかれ、誰もが固執し続ける、それぞれのツォアルは有ると思う。 仮に無いとしたら、とうの昔、この国と教会はリバイバルを体験している筈だ。 そしてロトを見よ。 彼は最終的にツォアルを諦めた。 ロトが諦めざるを得なかったツォアル・・・