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■ 転回 / 黙示録 1章17~2章7節

  • 黙示録 1章17~2章7節
  • 2015年7月19日
  • 読了時間: 3分

人間は二種類の耳を持つ。 一つは生まれ持っている耳。 もう一つはキリストから戴いた、霊的な声が聞こえる耳。 当然であるが、クリスチャンだけが与えられた耳とは言い切れない。 クリスチャンでも与えられていない人がいることは、決しておかしなことではない。 そしてこの耳はいつだって、必ず機能する耳ではない。 それが素晴らしいと思うし、悔しいときもある。

黙示録という記録の書は、ヨハネという人がパトモス島に流刑された際に書かれた。 彼は神から見せられ、語られた、夢のようで夢だけではない。 幻のようで幻だけでもない。 不思議な体験をしたが、そのとき見た世界を書き記した。 聖書の中で唯一、今はまだ実現していない未来を前もって見たと言われる。 その表現は実に摩訶不思議である。 しかし、不思議だけで済まされないものがあるのが、聖書である。

黙示録2章。 七つの教会の冒頭に挙げられたのがエペソの教会。 エペソという町は港町であり、海と陸の通商路に恵まれ、色々な国の人々が集まり行き交った町である。 人も金も行き交えば当然であるが、快楽と道楽が賑わいに徒花(あだばな)を咲かせたのであろう。 しかし、キリストの福音と御力はそういう町にさえも教会を建て上げた。

エペソの教会はパウロの同労者達の祈りと働きで開拓された。 そして、その教会はキリストの熱い愛によって成長し、発展した。 彼らは行いにおいて、労苦において、忍耐強く、偽使徒を見分ける力があった。 これらは大いに評価の対象となった。 仮に私であれば、鼻高々になったであろう。 しかし、よくよく考えてみるならば、それらはすべて自力、努力、熱心で築き上げられるものでもあった。 キリストは彼らに対し、こういわれた。 「あなた方には非難すべきことがある。あなた方は初めの愛から離れてしまった。。。」

教会とキリストの愛のつながりは、私達の努力や忍耐によって果たせないわざなのだろうか。 主はそこを指摘された。 確かに教会の努力と労苦は大いに評価されるべきものである。

しかし、ことは人間の側の努力で埋められないものもあるのだ。 教会が建てられた意味は、神の愛と力、神の選びと働きの委託、つまり神が主導であって人間主導ではない。 あくまでキリスト主体であり、キリスト中心であり、キリストが「かしら」である。 だから「キリスト教会」なのである。

私達はエペソの教会がもつ弱点と欠点を、我が身の弱さと認めて今からの取り組みとすべきであろう。 初めの愛とは、過去のどうしようも無い罪が完全に洗い清められたのを知った、あの歓喜と涙である。 キリストの十字架とよみがえりはこの世の宝に比べても、はるかに優って見えたものだ。 それが今は・・・・

一体、あの愛はどこに行ってしまったのだろう。

キリストは言われる。 「あなたはどこから落ちたかを悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(黙示録3:5)

なんと有難いお言葉ではないか。 これ以上の導きがあろうか。 初心に帰るだけでなく、落ちた場所から悔い改めよ、と主は言われた。 そう、どこから落ちたかを思い出して、そこからやり直せるのである。 教会にとって、キリスト者にとって、一番嬉しいことは「やり直せる」ことだ。 この世で生きる中で一番厳しいことは、「やり直せない」ことである。 だが、キリストにあっては「やり直せる」のだ。

更に聖書はこう言う。 「勝利を得る者に、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」 兄弟姉妹、アダムとエバ以来、閉ざされたいのちの木の実は、今再びキリストにおいて悔い改め、救われた時の初心に返ってやり直せば、それが勝利なのである。 時間と経験の中で、硬く踏み固められた様な心は、キリストの十字架によって掘り返される必要がある。

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