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■ ふたりでひとり / エペソびとへの手紙5:20~32

パウロはエペソ5章において「夫と妻の関係」と、「キリストと教会の関係」を並列比較し、そこから互いの重要性を教えてくれている。 パウロはあの時代、つまり男尊女卑、一夫多妻、奴隷制が生きていた時代に、何とも時代先取りも甚だしいとヒンシュクをかったのではないかと想像するが、そんな周囲の気配をものともせず、大胆に切り込んでいる。 それは2千年後の今にあっても、実に新鮮であるし当然なことと理解される。

先ず22節に「妻達よ、あなた方は主に従う様に自分の夫に従いなさい。」とある。 これは後世、長い間、男性たちにとって鼻高々の言葉となったであろうが、一節だけですべてを理解したかの如くは、滑稽極まりないものにもなる。

私が35年前に購入した注解書を改めて調べていたら、こんなふうに書かれていた。 『22節の「従いなさい」という言葉は原文には無く、前節21節の「互いに従いなさい」が22節にかかっていると解した補足語である。』 つまりパウロの思いは、基本的には夫婦がキリストを畏れ尊んで、互いに従い合いなさい、である。 どちらが先だとか、従属せよとか、そういう考えは毛頭無いのである。 そこに拘るとしたら、キリストの愛など入り込む余地など無い。

「教会のかしらはキリストであって、ご自身がそのからだ(教会)の救い主であられるように、夫は妻のかしらである。」と23節が言う。 読者はよく読みとっていただきたい。 教会はキリストによって救われたのであるが、妻は夫によって救われたのでない。 夫にせよ、妻にせよ、共にキリストによって救われた身でしかない。

「教会がキリストに従うように、妻もすべてのことにおいて、夫に従いなさい。」と24節にある。 「教会がキリストに従うように」とは、教会の一部である夫がキリストに従ってこそ、妻の自発的な従順を知ることが出来るのだ。 そこにおいて初めて、家族の長(かしら)としての立場を全うするのである。 世帯主だけなら、誰だってなれる。

夫に対するパウロの第一声、 「夫達よ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。」25節。 教会はキリストが示してくださった愛の証しを忘れない。 すべてはそこからスタートしている。 キリストが為さったようにとは、アガペーの愛であって、それ以外の愛ではない。 そしてアガペーとは、示す側が感じたり計ったりするものではなく、受け手側が素直にそう感じる、知るのである。

25章を読んで私が昔から思っていたことは。 夫の立場と召しの意味である。 夫は家長である。 夫は創造主から呼ばれ置かれた立場と使命がある。 場合によって、家族を束ねて後ろにかくまい、神の裁きのことばの矢面に独り立ち尽くす「弁慶の如くの存在」であるべきだ。 それだからこそ男であり、夫である。 勇気とはそういうものだ、とクリスチャンになって分かった。

まさか、子供や妻を前に出し、自分はその陰に身を守るなど、あろう筈がないことだ。

「教会がキリストに従うように・・・・」 すっと耳に残る言葉である。 主権も主体も主語も、キリストである。 まさか「キリストの名を借りて、主導権を握っているのは案外人間達だった」、なんてことのないのを願う。

従うなら愛そう、なんて愛は聖書にない。 愛してくれたら従ってあげる、なんて愛もない。 夫婦とは、教会とは、どちらの立場にせよ、私達の教材は自分自身である。 先ず、一番難しい課題を一番身近に置かれたと諦め、キリストに従い行こう。 「キリストにならオンブに抱っこが許される」ということ、知っおいでだろうか? もしご存知でなかったら、もう一度イエスの元に一緒に行こうではないか。 解決の鍵はイエスご自身であるからだ。アーメン!

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