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■ シロアムの池 その1 / ヨハネ9章1~17

生まれつき目の見えない男性にとって、光りをイメージすることは不可能であった。 彼の仕事と言えば、物乞いをして何がしかの金を恵んで貰うことだけ。 彼にとって誇りとかプライドなど許されなかった。 おまけに目の見えない理由として、人々からは先祖の罪だとか、両親の罪だとか聞こえんばかりに耳にする日々だった。

ある日、全盲の彼に光りが歩み寄った。 イエスは彼の耳に届く距離で弟子達にいわれた。 『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』 ヨハネ9:3~6 目の見えない人の心にまことの光りが差し込んだ瞬間だった。

如何ともし難い試練は神のわざが現れるため。 意味不明な苦しみも、不条理な出来事も、神の介入と助けが来る、ということか。 私達が一番苦しい時を神は知っておられる、という意味なのか。

私は救われて37年のクリスチャンであるが、ヨブ記の難しさと混迷を極めた鬱陶しい論争は非常に苦手だった。 暗い、辛い、出口の無いトンネルの様な、闇の中の全37章という長丁場にウンザリした。 しかし、愛用している榎本保朗師の「一日一章」から改めて教えられた意味は、まるで光りが差し込んだ様だった。 幾度も何年も読んで来た筈なのに、初めて光りが差し込んだ思いがした。 「みことば うち開くれば 光を放ちて 愚かなる者をさとからしむ。」アーメン 文字通り、詩篇119:130の成就だった。

神が与えられた環境も人生も、私達にとって、与えられたところで生きよ、と主が仰せられた場所ではないだろうか。 神から与えられてないものを欲しがったり、無いものねだりをしたり、神と人生と他人と環境を恨んでどうなるのか。 野生の動物は、いかに荒地であろうとそこで生きよ、と神が置かれた。 彼らに餌を与える者などいない。 産み落とされた子は直ぐに猛禽の餌となる。 だが彼らは生きて行くではないか。 彼らは自分の置かれた状況に対し、神を恨んでいるだろうか。 ヨブよ、あなたは神の意図する世界と、創造の意思を知った上で自分を正当化し、己を義人と自負しているのか? ヨブ記39章から語られるたった1頁だが、榎本師の言葉が心に痛くも爽やかに沁みこんだ。

神は神である。 神は絶対者である。だから神なのだ。 我々人間が神にしたわけではない。 永遠から永遠まで神は神である。 比べて人とは何だろう。 弱点も欠点もあり、愚かさも傲慢も限りなくある。 人は人でしかない。 人の心は光ではない。 貪欲で深い闇でさえある。

いったい人とは何だろう。 いみじくも詩篇の記者が言った。(8:4) 「人とはいったい何ものでしょう。あなたがこれに心を留められるとは。」 ここが私達の原点でなくて、どこが原点だというのか。

イエスの光が私達に届かないとしたら、それは私達に問題があるからだ。 ヨブの足元にも及ばぬ私達ではないか。 荒野に生きる獣たちは、そこで生きぬく力と知恵を神から与えられている。 果たして我々はどうだろう。 動物以上に知恵も知識も創造力だってある。 それも神からの賜物である。

不平を言い始めたらきりがない。 第一不平を並べ立てて物事が前進するだろうか。 人間関係が良好になるだろうか 神との関係が改善するだろうか。 ノーである。 置かれたところでキリストを礼拝し、感謝して彼と生きることである。 イエスはあなたの環境が何処にあろうと、共に生きてくださる。 それは彼ご自身が光だからだ。 変えるべきは環境ではなく、先ず自分自身ではないだろうか。 自身が変わらずして、どこに住もうと現実は変わらない。 置かれたところは神の御意思であると思わないか。 そう確信して生きれば、キリストが私達を変え始められる。

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