■ シロアムの池 その2 / ヨハネ9:17~41
ヨハネ福音書は真っ向から読む者を泣かしつつ、目から鱗を取リ去り更なる深みへ誘う。 あの時代、キリストの情報は今と比較すれば、まだまだ狭い空間だった。 しかし彼の際立った独特なキリスト観は、キリストを求める人に受け入れられた。 茫洋として余りにも偉大なる神、目に見えない霊的存在と愛を、聖霊の導きと助けの中で、人の魂に熱く迫ると思う。 彼の福音書は、使徒ヨハネの個人的目線と視野に思われ易いが、イエスが世に来られたことの真の意味と目的を私達に対し見失ってはならないことを示している。
生まれつき全盲の男性の目が開かれる話が9章全体で語られるが、本当に伝えたいテーマは「目の見える私達が、実際に見るべきものさえ見えていない」ということだ。 私達はやはり、この目で見た世界と価値観で生きているのだ。
イエスはいわれた。 「わたしはさばきのためにこの世に来た。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためである。」 ユダヤ人は聞いた。「では私達も盲目なのですか?」 イエスは彼らに言われた。 「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったであろうに。 しかし、あなたがたは今、『私達は目が見える』と言う。だから、あなたがたの罪は残る。」
1975年、私は30歳で念願の家を建てた。 土地代も家代も走り回って集め借り入れた。 時代の流れも経済も物価も大きく様変わりしたOILショック時代。 どうせ遠くない日に終る(自己破産)なら、せめて家の一軒くらいは建てて終りたい、と思った。 やがて完成した新築の縁側に寝転んで満喫間を味わう積りだったが、実際は違った。 心は虚しかった。 それが何故か分からなかった。 「この虚しい気持ちは何故だろう。。。」 それから辛酸舐めて三年経過、やり繰りがようやく順風満帆となった頃、私はキリストを受け入れた。 そのとき「何故だろう」の意味が理解できた。 心というものは、人の目には見えないからこそ、目に見える物や金で満たすことは出来ない。 それらで満たそうと思っていると、やがて行き着くところは貪欲でしかない。
そして人は宗教を求める。 この世での最後の砦か、はたまた何かの準備の如くか。 だが、人が満足を求める宗教では救われない。 それは、やはり自分が中心だからだ。
だから私は教会に問う。 私達は宗教をすべきではない。 キリスト教を宗教にすると、心と人生は形骸化する。 確かに修養し、学び、自己訓練をする。 だが私達の体は血が通う肉体であり、心だって生きている。 弱さと欠けと限界あるものだが、生きているなら「今、生ける神」が必要である。 生けるキリストと生きること、これがキリスト教であり、キリスト者である。 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」マタイ22:32
キリスト教に取り組む私達に、確たる完成はない。 この人生が終わり、天の御国に至るときが完成であろうが、それさえも自分の力では為し得ない。 雲を掴むような論理であるが、大事なことはキリストにつかまえられておれば宜しい、のではないか。 キリスト教は論理ではなく、神の摂理を受け入れて行く道と思う。 第一、人は死ぬまで罪びとである。
最後、キリスト者は自分を諦めるべきだ!! (大丈夫、諦めることなど人間そう簡単に出来はしない。) 諦めないから苦しむ。 クリスチャンではなく、クルシムチャンになる。 自分を信じるのではなく、キリストに信頼し、没我の果てに自らの意思をもって、キリストに依存する道を目指そう。 だがしかし、「達成したぞ!」と喜んだ瞬間、スタート地点に戻されてしまう。 それだから面白い。
『私達は目が見えると言う、あなた方の罪は残るのです』ヨハネ9:41 何とも深いい世界、ここに今まで生きて来た見える世界と同時進行の世界があったのだ。