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■ あの方に命賭ける時も来る / 第一列王記18:30~40

北王国イスラエルの王、アハブはシドンの王女イゼベルを娶った。 アハブはイゼベルが持ち込んだ偶像アシェラとカナンの偶像バアルを礼拝した。 日本人が考える五穀豊穣神よりはるかに凄まじく官能的で、預言者を擁するこの偶像礼拝は国民を惑わし、その魂を支配した。 聖書は言う、「アハブは彼以前の誰よりも主の目の前に悪を行った・・・・。」

その時代に神が立てられたのはギルアデ出身のティシュベ人「エリヤ」であった。 家柄も家系も語られない「一介の素浪人の様なエリヤ」は忽然登場するのである。 だが、エリヤは実に非凡であった。 エリヤこそ神の前に居続ける人だった。 アハブ王とて恐れることなく、神からの挑戦状を叩きつけた。 「カルメル山にバアルの預言者450人とアシェラの預言者4百人を集めなさい。」 バアルが神か、ヤハウェが生ける神か、の決着をつけるためだった。

地上に存在する人間、宗教にはすべて前向きであると言える。 殆どの人々は神信仰を持ってきた。 そのこと自体、人は宗教を求め、信仰を疎んじるものではないということだ。 つまり人間の内側には神を求める要素が本質的に潜んでいるのである。 それこそが「人は神によって造られた被造物」だということを証明する。 仮に神を否定する人《無神論者》であったとしても、彼は己を神としているではないか。 故に人間は内であれ、外であれ、どこかに絶対的存在を意識している。

ヤハウェは霊なる存在であって、人の目に見える姿、形を持たれない。 だがしかし、それこそ人間が苦手とする論理である。 人はどうしても目に見える対象に惹かれる生きものだ。 時間の中に生きる人間にとって、時間に左右されない「永遠なる存在」は何とも掴みがたい。

イスラエルはヤハウェ信仰の故に選ばれた民であったが、人とは各も弱いものである。 目に見えるバアル祭儀は誘惑に満ちていた。 イスラエルは心を翻したが、確かにヤハウェを忘れたわけではない。 疎かにしたのである。 エリヤが指摘したように「あなた方は。いつまでどっちつかずによろめいているのか。」であった。

果たして我々は如何であろう。 人間は確実に、目に映るものに弱い。 おまけに、この世は誘惑満載だ。 仮に誘惑に落ちて罪を犯さずとも、誘惑自体は楽しめる。 確かにキリストを忘れたわけではない。 ほんのちょっとだけ、好奇心を他に向けただけである。 そして気がついたら心はまことの神と偶像の狭間を、さ迷っている・・・・エリヤの言葉が突き刺さる。 「いつまで、どっちつかずによろめいているのか。」

パウロは言う。「私は自らを打ち叩いてまでして、キリストに従わせる。」(1コリ9:27)。 本当にそうだと思う。 誰かに福音を語っている自分が、やがて知らぬ間に失格者になっていたなんて絶対無いことではない。 ことクリスチャン信仰に限って、自信など間違っても持たぬがよい。 先ず、救いは自分の努力によって得たものではない。 キリストから賜ったものである。 ならば信仰は失くしもする。 イエスはペテロにいわれた。 「わたしはあなたの信仰が無くならない様に祈った。」(ルカ22:32) そう、私達は主に祈られているのだ。

榎本保朗師の言葉。 キリスト者にも「キリスト教無神論者」がある。 確かにクリスチャンなら「神はいない」とは言わない。 だが「神は無から有を呼ばれる方」(ロマ書4:17)と言われて、「そのとおり!」と100%思っているだろうか。 死んで葬られたラザロの墓の前で、「主よ、もう四日も経ちますから、臭くなっておりましょう。」(ヨハネ11:39)と言わずにおられるだろうか。 人には出来ずとも神に出来ぬことはない、(マルコ10:27)と心から思って生活しているだろうか。 「主よ、いくらあなたでもそれは無理でしょう。」と心の中で呟く瞬間があるとしたら、キリスト教無神論者である。。。

エリヤは1対450の戦いに参じたのではない。 彼は「主こそ神」の戦いに臨んだのである。 その日の午後、カルメル山の麓を流れるキション川で450人のバアルの預言者は殺され、渇水の川床は血の川と化した。 イスラエルの民はエリヤに向かって叫んだ。「主こそ神! 主こそ神!」 覚えたい、21世紀の私達こそ「主こそ神!」と決心する必要を。

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