■ ナボテのぶどう畑 / 第一列王記21:1~17

イスラエルの北西部にイズレエルという肥沃な平原地帯がある。 そこにナボテという人がいたが、彼の所有するブドウ畑は宮殿の傍にあった。 王が外を眺めるたびブドウ畑が目に入る。 たわわに実った葡萄は王宮の庭を彩るに相応しいものだった。 アハブ王はある日、意を決してナボテに頼んだ。 「なぁ・・ナボテよ、ものは相談だが、お前のブドウ畑をわしに譲ってくれんかの。勿論、相当以上の金は払うし、場合によってはもっと良いブドウ畑を与えようぞ。」 そして喜んで自分に頭を下げるナボテをイメージしていたアハブだったが・・・。 ナボテは王の顔を見ながら言った。 「王様、先祖から受け継いだこの畑、たとい王様のご命令であろうとも、お売りすることなぞ決してあり得ないことです。」 途端、王のプライドはぶちきれて、王宮にとって返すと怒りで食事も忘れ、ベッドにひっくり返って起きて来ようともしなかった。

人間にとって何とも難しいことは感情を支配し、収めることだと思う。 増してやアハブは義憤を感じて怒っているのだ。 感情起伏の激しくない人でも、自尊心はあるし、自負心も誇りもある。 ましてや王である己の謙遜な出方を踏みにじられ誇りは吹き飛んでしまい、惨めと悔しさだけが彼を飲み込んだ。 普段は心の底に沈んでいるそれらのものは、一触即発爆発のチャンスがやって来ると突然燃え上がる烈火そのものである。 さもありなん、である。 王たる自分がこれほど下手に出て頼んだのに、たかが一介の農民如きに蝿の如く追い払われたとは・・・ 考えれば考える程に、行き場のない怒りの波は後から後から激しく押し寄せた。

自分の立場と考えは正しいと思える程に、感情とは収めにくいものである。 若い(?)日の私もそうだった。 今よりはるかに正義(?)をまとっていたし、道理に適った自分だと思っていた。 卓袱台(ちゃぶだい)をひっくり返して、その場を立ち去った。 だが、後から考えると決して格好良いものではなかったし、幼さを暴露したに過ぎなかった。 静まって聖書の前に座れば何と言うことの無い、妙に憐れな自分を見させられた。

尊敬する大先輩の牧師、榎本保朗師の実話がある。 彼が同志社神学生時代、通っていた近所の教会の牧師に誘われ道を説いていた。 やがて牧師は榎本神学生に言った。 「どうだ、君もやってみないか。」 榎本君は牧師と同じように声を張り上げて叫んだが誰一人、見向こうともしない。 すると、いたずら盛りの子供たちが榎本神学生に向かって言った。 「や~い、や~い、アーメン、ソーメン、ヒヤソ~メン」 榎本神学生は振り返り、子供達を睨みつけてやった。

「さあ、帰ろうか・・」 牧師に背を押された我が身を考えると何とも惨めだった。 片手に木箱、片手に提灯・・・言葉にならない程恥ずかしく情けなかった。 怒りは、信仰など吹き飛ばしていた。 教会に帰った牧師が神学生に言った。 「さぁ、感謝祈祷会をしよう。」 それを聞いた神学生の心は更に怒った。 (何が感謝や、これやからキリスト教は駄目なんや。腹が立てば立ったっていいじゃないか。その方がよっぽど正直や。)

牧師は神学生に賛美歌536番(伝道者の書11章)を歌おうと言った。 そして目に飛び込む賛美歌のことばは静かに鋭く彼の感情を静めていった。 一. むくいをのぞまで 人にあたえよ こはかしこき みむねならずや 水の上に落ちて 流れし種も いずこの岸にか 生いたつものを 二、浅きこころもて ことをはからず   みむねのまにまに ひたすらはげめ   風に折られしと 見えし若木の   おもわぬ木陰に ひとも宿さん 神学生はこの歌を歌っている自分がつくづく恥ずかしくなり、今更のように信仰の無さを恥じたそうである。

それから二十年、今治の榎本牧師の教会に同志社神学部から新卒の学生が派遣されてきた。 面接しながら学生の住所を見ると、むかし通っていた教会の近所らしかった。 そこで榎本牧師は、あの頃のことを学生に話した。 すると話を聞いていた学生が、牧師の話が終るのももどかしげにこう言った。 「先生、そのとき、アーメン、ソーメン、ヒヤソーメンと言ったのはこのぼくです。ぼくはあれからしばらくして、教会に行くようになったのです。」

牧師は、あまりにも奇しき神のみ業に、しばらく絶句した。

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