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■ カナの水瓶 / ヨハネ2:1~11

この世で二人といない母を体験したのはイエスの母、マリヤである。 処女の身でイエスを身籠ることを創造主に決められ、赤子の名前まで神が決められ、息子の人生までも、すべて父なる神が決められた。 マリヤであったにせよ、神に呟きたいことも、文句の一つもあっただろう。 凡そ、不条理と困惑の彼女の人生を共有出来るひとなどこの世にはいない。 有史以来、誰ひとり体験しなかった人生を強いられたのだから。

あるとき、マリヤは「カナ村」の知り合いから結婚式の接待責任を依頼された。 そのつてでイエスと弟子達も宴に招かれたのであろう。 宴が盛り上がった頃、葡萄酒が足りなくなった。 そのときマリヤは思わずイエスに向かって呟いた。 「葡萄酒がありません・・・」 イエスはマリヤに向かっていわれた。 「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしのときはまだ来ていません。」

イエスが公生涯に入られたときから、母と息子は目に見えない岐路において、それぞれ別の道を選んでいた。 イエスは誰もが想像しなかった受難の道を目指し、マリヤの道は不可解な霧が包む迷路であった。 彼女が手伝いの人に言った短い言葉からそれが感じられる。 「あのひとの言われることを、なんでもして上げてください。」 母と息子のやりとりは、マリヤとイエスの二人だけが理解していた。 そして後世のクリスチャン達である。

キリスト者であるなら、主に対しては「受身」の筈である。 クリスチャンであるということは、キリスト(メシヤ)を「肯定した」のである。 私たちは単に「信じた」という領域に留まるべきではない。 そして、この二文字「受身」「肯定」の意味が、私達の中でどれ位の「濃さ」を持っているかが大切である。 もともと人間は主に対して、受身で居続けることを嫌う。 すべてのひとは己の中では、己が己の主であり続けたいからだ。 そして私たちは人生で絶えず彼を肯定しているだろうか。 礼拝で、祈りで、肯定することは容易い。 しかし普通の生活の中で、葛藤せずに彼を肯定しているだろうか。

葡萄酒が足りなくなったとき、イエスは手伝いの者にいわれた。 「水瓶に水を満たしなさい。」 彼らは六つの大きな水瓶に水を満たした。 満たす意味も目的も不明であったが、彼らは労力を惜しまず、マリヤの言葉のとおりに「何でもした」のである。 イエスはいわれた。 「さあ、今くんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」 彼らが持って行くと世話役は、それを飲んで言った。 「誰だって後から安物の葡萄酒を出すものだが、よくぞ良い葡萄酒を後から出してくれたものだ。」

誰も、それがどこから来たのか知らなかった。 しかし、労を惜しまず働いた手伝いの者たちは知っていた。 誰が命令し、誰の指図で「良い葡萄酒」が生まれたことだけは。

それは井戸から来たのではない。 それは水瓶の中で化けたのではない。 それは紛れも無く、キリストから来たのである。

キリスト教とはヘブル語で言うならメシヤ教(救い主)である。 慣れ親しんだギリシャ語の意味とは違った印象を与えるが、それこそが聖書の初めから、人類に約束された「救い主」の到来と「救いそのもの」における意味だ。 兄弟、姉妹、あなたはメシヤに出会ったのである。 そして出会っただけではなく、メシヤを信じ、彼と生きているのである。

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