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■ I am the WAY 2 / ヨハネ14:3~10

November 29, 2015

人間世界、「真理」を声高々に唱える者は次から次へと現れる。
 世の宗教と言えば、真理は必ず彼らの重大項目の一つである。
それ程に世の人々も注目しているからであろう。
 「真理」とは「この上なく、まことの道理」であり、真実性において不変であるのは当然で、これ以上ない正しい道である。

 但し、いつの時代も登場するのは、見るからに如何わしい風体であったり、カリスマ性だけにものを言わせて人々の好奇心を煽り、真理!真理!と叫んでいる。
 挙句の果てに大勢の人の命を奪い、傷を負わせ、人生を狂わせたのも、世界の同類項達であった。

ヨハネ福音書14章6節
イエスはいわれた。「わたしが道であり、真理であり。。。」
しかし、彼が真理の道を開いたのではない。
 彼が真理を教え、完成させたのではない。
 「彼自身が真理である」、といわれた。
 (だが、これだって一番怪しまれるパターンでは?)
さあ、それでもあなたはイエスを信じますか?
そういう思いを念頭において聖書を学んでも、多難な取り組みになるであろう。
 私たちは自然の成り行きの中で彼を信じたとき、彼こそが真理であると知った。

つまり、イエスに出会った殆どの人は、彼の資質を調べてイエスを信じたのではない。
 人々は単に「彼という存在」を信じたのである。
 人間が神を信じたからイエスに出会えたのであり、そして己が罪を知らされた。

 弟子のトマスがイエスに問うている。
 「主よ、あなたが何処へいらっしゃるのか、私達にはわかりません。どうしてその道が私達に分かりましょう。」
 当然である。
 弟子も私達も誰もが同様であった。
だが、イエスの言葉を聞いて、我々は「うん、確かにそう思う。」で、あった。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちである。わたしを通してでなければ、誰一人父のみもとに来ることは出来ません。」(ヨハネ14:6)
 信じたらわかるのである。

イエスが道、イエスが真理、イエスがいのち。。。、イエスを信じたらわかるのである。
 分かろうとしなくても、理解出来たし、真理自体にも納得できた。
 人はイエスがわかれば、神を知る。
 神のすべてを知ることは不可能である。
 神は愛であると知れば、それで良い。
そこで人はイエスと自分の関係を知る。
これは哲学でも宗教でもない。
 信仰である。
だから、救いが来る。
 本当の救いをあなたが知ったら、この道筋がわかると思う。
 自分の罪を知ると十字架がわかる。
そして救われて以降、私たちは自分の罪の大きさとおぞましさを知った。
それを知れば知るほどに、十字架が自分の人生に無くてはならぬものになった。
つくづく思うこと、「神は厳しさと慈しみ」の両面を同時にもっておられる方である。
そしてこの両方が、私達の信仰生活に絶対不可欠なものである。

ローマ11:22「見てご覧なさい。神の慈しみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは神の厳しさです。あなたの上にあるのは、神の慈しみです。但し、あなたがとどまっていればであって、そうでなければあなたも切り落とされるのです。」

 久し振りに読んだデボーションの本。
L・カウマン先生の鋭い刃のようなメッセイジが、慢心した私の心を刺し貫いた。
 日本語では「オコジョ」と言うが、アーミン「ermine」と呼ばれる肉食の小動物の例がある。
 純潔、正義、公平、これらはアーミンの命と存在が象徴しているものと合致する。
たかが25センチ程度の野生の小動物。
 但し、アーミンは自分の美しい毛衣を汚されることだけは、命を賭して拒む生き物であった。
この自然の摂理には改めて目を開かされる凄いものがある。
 「The ermine」と言うなら、人を裁く法廷に仕える判事、裁判官達の職分を意味する程にその真理は深かった。

 地上にアーミンの毛皮以上に白く美しい物は無い、とさえ言われた。
かつて多くのアーミンは、アジアの山々を駆巡っていた愛すべき生き物だった。
では猟師はどのようにして俊敏なアーミンを捕まえるのか。
 小さくて雪深い山に生きる真っ白なアーミンを捕えるために、猟師たちが使った方法は、この小動物の性質を逆利用する狡猾で卑怯なやりかたであった。

 先ず、彼らはアーミンの隠れる場所、住処などの入り口に汚物を塗りたくっておく。
やがて犬がアーミンを見つけ、吠えたててアーミンを追い詰る。
アーミンは当然ながら、隠れ家や岩場に逃げ帰って行く。
しかし、彼らを待ち受けた隠れ家は、単に汚物で汚れた場所でしかなかった。
 吼え猛る犬に振り向いたアーミンは、躊躇することなく、犬に向かって突進する。
その小動物は、自分の白い毛を汚されるよりは、むしろ血潮で染められることを選んだ。

 私たちはキリストの十字架により、神の子とせられ、この身は雪よりも白くされた。
 世から培った緋のように赤い罪を、どうして再びこの身に帯びることが出来ようか。
 果たして、私達クリスチャンはアーミンから何を学ぶのだろう。

 

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