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■ 信仰は持つもの / ルカ1:26~45

イエスがこの世に誕生されるために絶対不可欠な要素は、彼の母たる存在だった。 その女性は処女であり、純情純純潔な心身に加え、神を畏れる者が必要だった。 イエスにおいて地上の父にあたる男性はダビデの家系に属する者、道徳的に非がなく、秘密を守ることに長けており、真面目な者であり、神と人に忠誠が尽くせることだった。 以上、多くの要望を満たすことが出来る二人の登場を、創造主は長い間ずっと待っておられた。 あの時代、たまたまマリヤとヨセフに目がとまったわけではない。 創造主は人間世界の営みの中、地中海の際カナンの地に住む民の上で、長い年月、御目を凝らして「そのとき」を待っておられたのであろうか。 その子はセム族の出、アブラハムの子孫、エッサイの根株ダビデの末裔という系図が必須だった。

クリスマスとは、キリストの御降誕をお祝いする習慣であるが、マリヤとヨセフのことを考えると毎年複雑な一面も迫る。 第一にロマンチック(情緒的で甘美)な雰囲気は感じられない。 彼らの長子であるイエスが背負った人生、息子のためにマリヤとヨセフはたった一度の人生を変えられ、天の父は「最も大切な子」を失ったからだ。 第二、これら三者の犠牲はクリスマスの度に私達の心を削がれるほど、痛々しいものがある。 哀れで切なく、犠牲と献身、宿命と従順、「ああ、人類の救済事業は各も厳しい贖いの代価で始まった。」のである。 世界中でマリヤとヨセフの人生体験をした夫婦は、後にも先にも他には無い。 そして、それがなければ人の救いは起こり得なかった。

マリヤが背負わされた荷は、神が100%決められた内容で取り仕切られた。 「生まれる子は男の子、名前はイエス、聖なる者、神の子と呼ばれる。」 確かに、以上はその通りに実現したが、あとのことは当時マリヤが感じた内容とは大きく掛け離れていたと思う。 「いと高き方の子と呼ばれ、ダビデの王位が与えられ、ヤコブ(イスラエル民族)の家を治め、その国は終ることがない。」 だが、それは決して神が約束を取り違えたのではなかった。 しばらくの後、その意味が解明されたのである。 神の摂理であった。

マリヤの純粋で素直な心に、御使いの宣言することばが痛く響いた。 「神にとって不可能なことは一つもありません。」 マリヤは答える。「本当に私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」 どれだけのクリスチャンがそう答えられるだろう。 その意味は、仮にこの人生と身にどんな事が起ころうと、それは全て主からのこととして、喜んで受け入れます、である。

マリヤの従順な信仰を想いつつ、現代に生きる私達が知るべきことを考えた。 一つ目、「信仰とは神に賭けること」である。 それは、この世のギャンブル式ではない、 何よりも、私たちは神に賭けずして、何に賭けるのだろう。 考えて見ても、クリスチャンの賭けは凄まじいと思えるかも知れない。 不安と恐れは絶えず襲って来るであろう。 いっそのこと、後ずさりしたくなるであろう。 逃げたくなるかも知れない。 しかし一度、自分の手を離したものは戻らない。 意を決して献金したお金の如く、戻せないことと同様だ。

二つ目、「神は行動を求めておられる。」 聞いた、熟考した、で終りではない。 それはあくまでスタート地点に着いた程度であって、スタートしたわけではない。 用意!であって、ドン!ではない。 心と体による行動に至らねば、聞いたことにも学んだことにもならない。 学んだことは、実行、適用されなければ、決して学んだことにならない。 学ぶとは、やがては能動的に実践へと移行すべし、である。 そして教師も牧師も、そこまで見据えて語り教えることを意識すべし、と思う。 たとで実践するは自分でなく、他者であり、彼の選択次第であっても、だ。

三つ目、「信仰は持つもの」だ。 心にあるなら、決心したなら、それは己が手に握ったのも同然である。 事の真偽を問われる様な重大な場所に出かけて行く時、しっかりと信仰を握って行くべきだ。 後が無いような切羽詰った場所での証しは、信仰を握らずして出掛けてはならない。 少年ダビデが巨人ゴリヤテの眉間に、楔(くさび)の如き石を打ち込んだことは、単にダビデの石投げ技術が長けていたからではない。 ダビデが信じる主、イスラエルの神への強い信頼が勝利を呼んだのである。 「これは主の戦いだ!」と叫んだ紅顔の美少年、と聖書は言う。 ダビデの内なる熱い信仰は、並み居るプロの兵士さえ持っていなかった。

自分自身が一つの心、一つの体、一つの信仰にならずして、主の戦いに参加するなど到底あり得ない。 確かに巨人ゴリヤテに向かうべき兵士はイスラエルにも万といたが、ゴリヤテに立ち向う信仰を持った兵士は一人としていなかった。 イスラエル兵士はゴリヤテの威容と力、勢いにすべて圧倒されていた。 神は少年を用いて、その栄光を現した。 信仰とは神の栄光を現すのであって、個人の栄光ではない。 信仰とは考えるものでなく、持つものである。

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