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■ 個は体のために、体は個のために

コリントという町は偶像の中に造られた町と思えるほど、様々な神々に満ち溢れていた。 ギリシャは神々を生み出し、大和の国は何でもかんでも神として祭り上げた。 日本人は「恐れる対象を畏れる対象にする公式」においては名人である。 コリントの市場で売られる肉はたとえ一部であれ、大きな塊であれ、偶像に捧げられた肉が混入していたか、捧げられた肉と思われていた。 当然、コリントの教会に集う人々の知識と信仰の深さの度合いは様々だった。 ここに於いては現代とて同様である。 信仰生活を何十年も続けて来た人もいれば、昨日クリスチャンになった人もいる。 コリント教会においては、食肉に対してどう向き合うかといった問題でさえ、心と良心は躓きの原因になっていた。 つまり肉を食べる際、これは偶像に捧げられた肉であると思う人、疑う人、まさか違うだろうなどあった。 また偶像など、そもそも無意味であるから、たとえこの肉がどんな経路を通ってきたとしても問題無しとして食す人もいた。 パウロは食肉の問題を見逃さなかった。 彼は培った知識において取り仕切ることをせず、アガペーに従うことを選んだ。 なぜなら知識は人を高ぶらせるが、愛(アガペー)は人の徳を高めると考えたからである。 徳とは端的に言うなら、自己中心の反対と思えばよい。 周囲の為に、他者を慈しむために、痛みを分かち合うために、他の人を感化する人格形成である。 パウロの言う徳は、個人の益ではなく、教会にとって益となり、教会を建てあげる力となるのがアガペーである、と位置づけたのである。 現代において同様の問題がある。 経験と知識ある人の考えでは間違いは無いと思えても、クリスチャンになったばかりの人にしてみれば、疑問に思える言動は様々ある。 言葉は刃となり、行動は躓きの石にもなる。 彼らは弱いから、無知だから、で片づけられないことがあるのを悟らねば、アガペー無視の生き方と言えよう。 だからパウロは言う。「飲むにも食べるにも、何をするにも神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリ10:31) アガペーに照らし合わせてパスする自己中心の考えなど一つも無い。 知識かアガペーか? 偶像か神か? 権利か良心か? そして全体か個か? 最後に行き着くのが食べるか、食べないか? パウロは言う。「私たちを神に近づけるのは食物ではない。食べなくとも損にならないし、食べても益にはならない。 但し、あなたがたのこの権利が、弱い人たちの躓きとならないように、気をつけなさい。 ですから、もし食べ物が私の兄弟を躓かせるなら、私は今後一切の肉を食べません。 それは私の兄弟に躓きを与えないためです。」(1コリ8章) 最後の短い言葉がパウロのアガペーに対する決意を表現している。 個は体のために生きる。 ひとりは大勢のために生きる。 そして大勢は独りを見落とさない。 イエスは迷える一匹の羊のために99匹を山に残しておいて、一匹を探し続ける方である。(マタイ18:12)

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