■ 信じ切る/マタイ10章34~38

マタイの福音書10章から厳しい言葉が矢継ぎ早に飛んでくる。 イエスのことば、 「わたしが来たのは平和をもたらすためでなく、剣をもたらすためである。 そのとき、家族は互いに逆らい、救い主を信じた者にとって敵となるだろう。 何より、わたしよりも両親、兄弟姉妹、子供たちを愛する者はわたしに相応しいものではない。」 およそ私たちがイメージして来たキリスト教ではないと錯覚したくなる程である。 だが、私たちがイエスに対して抱く愛は、私たちの中で凡そ中立的か、それ以下かもしれない。 しかし主は、あなたがあなたの家族よりも誰よりも、主を愛すことを求めておられる。 文字通り、剣なるお方である。 そして家族愛とは、やはり理由に基づく愛でしかない。 自己愛の域を出ていない。 つまりアガペーの域に遠く達していないのである。 昔、私は主を愛することと家族を愛する愛は同じ天秤にかけられないと考えた。 ナンセンスとさえ思えた。 だが、やはり主は私に再三再四問うておられる。 「あなたはわたしを愛するのか?それとも家族を優先するのか?」である。 主に従う道で、最も難しい選択場面がここにある。 それはキリスト者の信仰生活における岐路ともなる。 だが、誰よりも家族を愛することは人間であるなら当然であることを、イエスがご存じである。 その証拠に、主は十字架の上、苦しい息の中から、ヨハネを見やり「そこにあなたの母がいる」と言われ、マリヤに向かって「そこにあなたの息子がいる」と言われた。 死して去りゆく自分にとって心残りはマリヤのことだった。 そして、どうしても割り切れない時に覚えよう。 「もしあなたがわたしを第一にするなら、あなたの父も、あなたの母も、わたしが守ることを信じなさい。」 榎本保朗師の思いである。 「信じる」という日本語の解釈は実に広い。 髪の毛の先っぽ程度でも、爪の先っぽ程度の信仰でも、「信じています」と言えば、それなりに「ああ、信じているのですね。」と理解される。 日本人の神観の軽さから来るのだろうか? それとも、ひとの心は見えないからだろうか? それとも、他者の信じる宗教は重んじるべきという国民性からだろうか? だが、「信じきっています」と言うなら、話は違ってくる。 場合によっては危険視される可能性がある位、強い言葉である。 その意味合いは、決して後悔しませんであり、腹を括っています、である。 だが、そこに至らない、至れない不甲斐なさと、自分に対するもどかしさが付きまとうのは何故か。 ペテロの失敗を知っているからか、トマスの弱さを知っているからか。 謙遜からでなく、剛毅の故でなく、意地でなく、いつでもイエスに向かって素直に言いたい言葉でもある。 マタイ10章、主のご要望にも応えたい。 「主よ、あなたを信じきってまいります。」

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