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■ 木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ

エリコの草原に陣取ったイスラエルは、はるか彼方にそびえる町の城壁を見て、何を感じたのであろう。 高く厚い城壁は町を完全に囲み、近づく誰をも拒むかの様にそびえ立っている。

だが、実際の城内の空気は違っていた。 ひたひたと迫り来るイスラエルそのものと共にある、目に見えぬヤハウェの臨在を異邦人たちは既に認めざるを得なかった。 イスラエルは幾多の困難の中で、荒野の38年の旅路を経てカナンの地に進入し始めていた。 目と鼻の先に迫ったイスラエルに対し、息をひそめ策を練っていたであろうが、何しろエリコの王と兵と住民にとって恐ろしかったこと。 それは目に見えない不思議な力がイスラエルの上にあり、滔滔と流れるヨルダン川は完全にせき止められ、水はつったち、イスラエルが渇いた川床を歩いて渡って此方へ来たことだった。

ヨシュアはイスラエルが今から何を為すべきか、主の御つげを人々に語った。 それによると7人の祭司が契約の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らすも人は声を発せず、ひたすら黙々と粛々と、エリコの町の周囲を一日一度だけ回ること。 武装した者達は祭司たちの前と、契約の箱の後ろを護かの如く進むこと。 それを六日間続ける。 そして7日目は7度周回し、イスラエルはときの声をあげ、祭司は角笛を高らかに吹き鳴らす。

これは主との契約であり、約束だった。 エリコの町は既にイスラエルの手中に置かれた。 主との契約を果たすのみである。

1977年、私はその年の特別伝道集会にターゲットを合わせ、この「エリコの城壁周回」にチャレンジした。 教会が位置する区域内を強く意識し、人々の救い、会堂の拡張、福音の徹底周知を計りたいと思った。 つまり、その区域を主のものとする。

10月半ばより周回は始まった。 日曜の朝に一回回る。 それを6週間繰り返した。 繰り返すうちに参加者もだんだん増えた。 周回に会話は禁物。 ひたすら黙々と粛々と。 最後の集会の朝、講師の有賀喜一先生も一緒に回って下さった。 その朝は7回回った。 (今振り返ると角笛が無かったことは、かえすがえすも残念だった。) 周回が終わって会堂に帰り、ときの声を上げ、「ただ信ぜよ」を皆で賛美した。

その当時、会堂と買い増した隣家をつなぐ工事の最中だった。 実際、隣家の支払いだけで汲々としていた。 つまり資金的にも完全に壁に突き当たっていた。 15坪の土地に縦に細長い家、この中古の家土地が何と4700万。 だが隣家ということで無理して買い込んだ。 そうしなければ、将来が見えない・・・ 既に以前からの借入金は半端なく残債があり、壁の様に立ち塞がっていて、隣家取得のために負債は更に膨らみ、工事費など計算外だった。 でも、前に進みたい。 前に進まなければ。。。 これらのことがエリコの周回となったのかも知れない。

伝道集会が終わり、その4週間後の年末最後の週、思いもかけなかった多額な現金が、思いもかけなかった人から振り込まれた。 それは工事代を差し引いて余りある金額だった。 私にとってその人は主のみ使いだった。

7日目、7度の周回後に「ときの声」を上げたイスラエルの目に映ったのは、地鳴りを響かせて崩れ落ちる城壁。 イスラエルは戦うことなく、城内になだれ込んだ。

私達のエリコ周回から8年後、今度は東隣の土地を購入出来た。 そのため教会土地は三方が通りに面し、角形に近い理想の形となった。

私の人生で生涯思い出に残るエリコ周回。 この話をあちこちでシェアしては、いつも笑われた。 当然であろう。 でも本気で周回した。 ヨシュアとイスラエルの真似ごとの様な周回は、半端なく照れるものだった。 文字どおり木偶の坊になった積りで回った。 私だけでなく、教会も、有賀先生も。 ありがとう、みんな。 ありがとう有賀先生。 そして、沢山の感謝をイエス・キリストにささげます。

主に従う時、木偶の坊と呼ばれるくらいの決心が必要だ。 理想と理性は敵でもある。 宮沢賢治先生は「私は木偶の坊と呼ばれたい」と詩を書いた。

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